呑気呆亭さんのブログ最新一覧へ « 前へ4020件目 / 全4161件次へ » ブログ 藤原宮跡から明日香を歩いてきました 通報する 呑気呆亭さん 投稿:2010/5/5 20:09更新:2010/5/5 21:18 <<藤原宮跡>> <<耳成山>> <<亀石>>平城宮跡を離れて、もっと古い都の跡を歩いてみました。大学時代の友人と20年振り位で再会しました。彼の地元なので、散策コースは彼におまかせ。一番左の写真は、藤原宮跡です。平城京に遷都する前の藤原京の中心地です。大和三山の一つ「耳成山」は、藤原宮の真北に位置します。綺麗な形をした独立峰です。大和三山の中では一番低い丘です。明日香(飛鳥)まで足を延ばして、亀石を見てきました。今日歩いた歩数は、2万歩を越えました。 タグ: 藤原宮跡 耳成山 亀石 写真 通報する コメントを書く コメントを投稿するには、ログイン(無料会員登録)が必要です。会員登録無料ログイン 4件のコメントがあります 古い順新しい順 呑気呆亭さん 2010/5/5 21:18 通報する yoc1234さん こんばんは、いつもコメントありがとうございます。当時の日本は、律令国家を確立する時期だったようです。先進国である唐の制度や都市計画を積極的に取り入れた、進取の時代でしょう。現在のように、古株の日本経済が、新興の中国経済に追いつき追い越される時期ではなく、圧倒的な大帝国「唐」の仕組みを、新興の日本が取り入れる時期だったということです。このプロセスで、渡来人や帰化人が活躍したことは言うまでもありません。もっとも、奈良時代の阿倍仲麻呂氏のように、唐の役人として出世した日本人もいた訳ですが、文化的に輸入超過の時代が永く続いていました。筋肉痛は出ないことを願っています。 (^^♪ yoc1234さん 2010/5/5 20:54 通報する こんばんは。藤原京の説明はありがたいですね。もともと要塞として機能するには大きすぎたようですね。また立地もよくなく、直ぐ攻め込まれたようです。それで、移動したような感じですね。2万歩歩けば明日は筋肉痛になりそうですね。 呑気呆亭さん 2010/5/5 20:44 通報する ダイコンさん こんにちは、今日の遅めの昼食は、友人のお薦めのお店で、自家製の柿の葉寿司とかわらび餅 たっぷりの山菜を地元の名産三輪そうめんと共にいただきました。おなかがいっぱいだったのに加えて、心地よい疲れが出て、帰りの電車の中でうとうとしてしまいました。日本での本格的な都は、平城京というよりは、その前の藤原京だと思います。710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間の都です。<<引用>>藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2キロとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3キロ(10里)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある藤原宮を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があった。ただし、この朱雀大路は後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の大きなものではなく幅 24メートル強(側溝中心間)の後の朱雀大路と比べて非常に狭い幅のものであった。 京極を除いて縦横九本ずつの大路が通っていた。京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。 問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。 daikonさん 2010/5/5 20:19 通報する こんばんは5月にしては暑い中、20000以上歩かれたのでしたら、少しお疲れなのでは。この当時の都は短期間であちこちに移ったらしいですが、政情不安だったのでしょうか。
いつもコメントありがとうございます。
当時の日本は、律令国家を確立する時期だったようです。
先進国である唐の制度や都市計画を積極的に取り入れた、進取の時代でしょう。
現在のように、古株の日本経済が、新興の中国経済に追いつき追い越される時期ではなく、
圧倒的な大帝国「唐」の仕組みを、新興の日本が取り入れる時期だったということです。
このプロセスで、渡来人や帰化人が活躍したことは言うまでもありません。
もっとも、奈良時代の阿倍仲麻呂氏のように、唐の役人として出世した日本人もいた訳ですが、文化的に輸入超過の時代が永く続いていました。
筋肉痛は出ないことを願っています。 (^^♪
藤原京の説明はありがたいですね。
もともと要塞として機能するには大きすぎたようですね。
また立地もよくなく、直ぐ攻め込まれたようです。
それで、移動したような感じですね。
2万歩歩けば明日は筋肉痛になりそうですね。
今日の遅めの昼食は、友人のお薦めのお店で、自家製の柿の葉寿司とかわらび餅 たっぷりの山菜を地元の名産三輪そうめんと共にいただきました。
おなかがいっぱいだったのに加えて、心地よい疲れが出て、帰りの電車の中でうとうとしてしまいました。
日本での本格的な都は、平城京というよりは、その前の藤原京だと思います。
710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間の都です。
<<引用>>
藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2キロとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3キロ(10里)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。
都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある藤原宮を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があった。ただし、この朱雀大路は後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の大きなものではなく幅 24メートル強(側溝中心間)の後の朱雀大路と比べて非常に狭い幅のものであった。 京極を除いて縦横九本ずつの大路が通っていた。
京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。 問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。
5月にしては暑い中、20000以上歩かれたのでしたら、少しお疲れなのでは。
この当時の都は短期間であちこちに移ったらしいですが、政情不安だったのでしょうか。