相沢忠洋さんと岩宿遺跡 5年9月27日(水)19時44分

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相沢忠洋さんと岩宿遺跡 5年9月27日(水)19時44分

(一部、訂正、1944年を、昭和44年に)


今日は、一寸、変わったものです。小生、相沢忠洋さんですが、昭和44年の正月、伊勢崎市の赤堀で、相沢忠洋さん宅を訪ねました。バスで降りて、北側、2キロメートルの所に、彼は住んでおりました。家の入口には猿が、激しく、小生を威嚇しました。家の中から相沢さんが、出てきて、猿をしかりつけました。


 家の中は、土器のかけらや、石器が、所狭しと、置いてありました。

 相沢さんは、その時「後、7年足りない」と、言ってました。「後7年、時間が有れば、何とかなるんだ」と、言ってました。研究の世界とは、時間との戦いだと、気が付きました。

 その頃の小生は、これから、この先、どう生きたらよいかと、考えている時でした。

1時間くらい話して、そこへ、40歳くらいの男(この人も、考古学関係の人でしたが)が来て、その男の運転で、伊勢崎駅まで、3人で行き、そこから、両毛線で、家まで帰った記憶です。

 

(ネットより)

2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。

 この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。

1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から、石器を発見しました。相沢はその後も、何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけましたが、土器が伴うことはありませんでした。当時は、1.5万年以上前の火山灰でできた関東ローム層の時代には、ヒトが住めなかったといわれていましたが、自分が確かめた事実を信じ、1949年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見しました。

 この発見は、いち早く東京の学者に知らされ、相沢さんと明治大学が岩宿遺跡を発掘調査をすることになりました。

 

学習史跡】岩宿遺跡 群馬県【旧石器時代】 

https://www.youtube.com/watch?v=xQgEHlUKT70  

  

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1件のコメントがあります
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    yoc1234さん
    2023/9/28 03:55
    おはようございます。

    この後、自然物ということで。

    取り消されてますね。

    金木の発掘調査
     昭和28年、杉原氏は青森県金木(かなぎ)の発掘調査を行いました。赤土の下の砂礫層から出土する「石器」が日本最古のものと確認するためです。しかしこの「石器」は自然状態のもとで生成された破砕礫(はさいれき)、つまり人工品ではなかったのです。発掘資金は当時としては多額を要したそうですが、杉原氏は潔く発掘の失敗を認め、以後、前期旧石器の存在に懐疑的となります(注5)。

    前期旧石器時代存否論争の再燃
     前期旧石器存否論争は、昭和37年に再び表面化します。大分県丹生(にう)台地から出土する石器類の形態が原始的であるとして、東京大学の山内清男(やまのうちすがお)教授や古代學協會主催者の角田文衛(つのだぶんえい)氏らが、これらを前期旧石器とする発表を日本考古学協会総会で行ったのです。またこの後、東北大学に赴任した芹沢氏は昭和39年に早水台(そうずだい)遺跡(大分県)を、翌40年から53年まで星野(ほしの)遺跡(栃木県)を発掘し、前期旧石器を発見したと報告するなど、前期旧石器の存在を認める立場としてリーダー的な役割を果たしていきます。

    杉原仮説の提唱
     そうしたなか、昭和42年、杉原氏は「”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”を破ってほしい」という一文を発表します(注6)。HYPOTHESISとは仮説を意味しますので、「杉原仮説を破ってほしい」というタイトルを付けたのです。杉原氏は丹生の資料については、古い地層から出土したものは自然石であり、人工品と認められるものは出土層位がはっきりしない、すなわち古い時代のものである確証がないと指摘します。また早水台の資料は「人工品があると思われない」として退け、星野についても、芹沢氏が前期旧石器であると主張する資料を「同意しかねる」と否定します。さらに、当時前期旧石器であるとされていた他の資料や「明石原人」(注7)等に対しても疑問を投げかけ、日本には前期旧石器文化は存在しなかったという仮説を提示したのです。

    前期旧石器時代存否論争のその後
     これ以降も前期旧石器の存在を認める意見と認めない意見が対立し、お互いの主張を繰り広げていきます。前期旧石器の存在を認める芹沢氏は自身が発掘した資料に対して「バーンズの鈍角剥離率」(注8)を応用したり、顕微鏡観察に基づく使用痕研究を推し進め、自説を補強しようとしました。これに対して芹沢氏が発掘した資料は人工品ではないとの反論が考古学研究者から提出されたほか、地質学者からもそれらは人工品ではなく、崖錐性堆積物(がいすいせいたいせきぶつ)(注9)であり自然品だとする主張がなされました。この論争は山陰地方にも波及し、山口大学の小野忠凞(おのただひろ)教授が空山(そらやま)遺跡や鳥ヶ崎(とりがさき)遺跡(ともに松江市)から出土した瑪瑙(めのう)・玉随(ぎょくずい)製資料を前期旧石器であると主張(注10)したのに対し、考古学、地質学の両面から疑問が投げかけられました(注11)。

     前期旧石器時代存否論争はこのように展開していきますが、それぞれの主張が平行線をたどり膠着状態となります。このような背景のもとで座散乱木遺跡の発掘は行われ、「3万年前より古い地層から人工品が出土した」という「事実」に基づき、事態は打開したかに見えましたが、ねつ造の発覚により白紙に戻っています(注12)。現在、早水台や星野で前期旧石器と主張された資料は人工品ではないというのが大方の理解であり、丹生の資料も問題となった礫石器は後期旧石器時代前半(3万年前以降)のものである可能性が示されています(注13)。ねつ造事件の検証を経た今日、3万年前より古い石器ではないかという候補はいくつかありますが、いずれも決め手に欠け、確実に3万年を遡る前期旧石器文化が存在したとは言えないのが現状です。

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