サイコさんのブログ
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生きづらさ
士業(弁護士、会計士等) 現在 23位
小泉劇場の余波は何も自民党の問題ではない。この7年間、米はそれこそ対テロという名のもとに、イラクと対戦した。実際に前線に立って戦ったのは、就職が無く、マックでバイトする日本で言えば、フリーターたちであった。
ここのところ雨宮処凛関係の対談本を何冊か読んだ。まぁ、本人だから同じことを言ってるのも仕方ないことなのだが、対談する相手が変わるので、どちらがホスト、ゲストということもないのだろうが、サイコ的な読み方(単にスタンスとしてね)としては雨宮をゲストに配置して、貧困と愛国だと佐高 信がホスト的な役割で、ちょっと前のワーキングプアの反撃だと福島みずほが(う、反クィア的表現)ホステス役という配置で見ている。またちょっと話がそれるが、何故か雨宮が上2人の社民党員と関係が深いので例示しているだけで、サイコが社民党に肩入れしているわけではないので誤解なきよう。
それで今回は「生きづらさ」について で萱野稔人と対談している。まず思いっきり萱野のは、自ら「左」宣言しているのだが、挿絵というか章の間ごとに挟まれるスナップ写真を見る限り、ストリート系までは崩れてないにしても、グラサンしてたりして左翼な感じには見えない。例によって、雨宮は「ミニスカ右翼から転じてゴスロリ左翼」ファッションである。しかし、このフレーズ、サイコの特許と思っていたら、普通にみんなそう思って使ってるらしい 萱野のギャップを言うのは、先回の思想地図(vol.1)のシンポジウムにもパネラーとして出ていて、そのときはビシッとスーツ姿で、さすが大学准教授といういでたちであったからだ。
まぁ、紙幅が少ないこともあって特には挙げなかっただけなのだが、萱野が思考するところは、ナショナリズムを、国家側が権力(暴力)を行使する場合の「上からのナショナリズム」と、いわゆる雨宮的な草の根運動から出てくる「下からのナショナリズム」という方向性で捉える、ということだ。ちょっと圧縮しすぎて説明になってないが、区分を方向性としているということ、上から下へか下から上へかの違いと思えばいい。で、今回の焦点は下からになるのだが、貧困と愛国でも言ってたことだが、低賃金で外国人労働者といっしょに働かされるときに、逆に日本人としてのアイデンティティを持つに至ってしまうということ。ここで比較として、萱野がパリに留学していたときに、フランスの貧困層と移民との確執を極右政党が拾い上げていることを書いている。これを知っているから、何も日本に限られた現象とは思っていない、フランスもそうだった、ということだ。フランスの貧困層の若者もグローバリズムに曝されて、ナショナリズムにすがる回路は、まさにグローバリズムが民族の枠をはみ出して平準化させているのである。
また、例の赤木論文については正論反論や諭しではなく、それを書かせた背景をどう解消すべきか、ということを言っていて、サイコの考えに一番近い視点かとも思った。二つの生きづらさ。カネがなくて物理的満足が得られない生きづらさ。フリーター、ニートあるいは正社員ですらか、生きる上での人としての認知が得られない生きづらさ。この解消は中々難しいことではある。まずもって、生活の安定、食と職の安定からなのであろう。次回、総括的に結論へ続ける。
グゥーーーー
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