当時の大蔵省が「銀行は健全であり、心配ありません。残る問題は信組だけです」という説明に終始したこともあり、誰も本当のな中身を調べてみようとはせず、目を覆ってなるべく金融界を見ないようにしてきたのです。金融は住専を処理すればもう心配ないという大蔵省の説明を鵜呑みにした私たち政治家が、責任を逃れる術はありませんが、その結果、橋本政権で官房長官に就任した私(梶山静六)は、財政再建(財政構造改革)に優先的に取り組むことを決断したのです。(文藝春秋98年6月号、梶山静六寄稿「日本興国論」より)
財政は「高い専門性」を盾とする官僚にとっての聖域なので、余程の信念のある政治家でなければ官僚の話を鵜呑みにしてしまいがちです。それどころか、これを監視する役割を担うメディアまでもが官僚の話を鵜呑みにしてしまうフシがあります。結果として、橋本内閣のときの財政構造改革では戦犯となり、懲罰的に金融に対する権限と「大蔵省」という名称を失うに至ったにもかかわらず、愚かな財務省はまたしても日本がデフレ構造を脱却できるかどうかという大事な時期に消費税引き上げに向かわせたのです。
そういえば、外交についてもこれと全く同じだということを、天木直人氏が最近有料メルマガで書いてました。
外務省という役所は、ほかの役所に比べれば得をしている役所だ。なにしろ、外交といえば一般人は近寄れないという迷信がいまでも通用するからだ。だから、外交を一手に引き受けている外務省は、それだけで偉いと思われている。それをいい事に、あること、なすこと、すべてもっともらしくなってしまう。(中略)これを要するに、外務省関係の報道は、根拠ない報道が独り歩きしていることが多い。今回の報道もその典型だ。外務官僚たちはさぞかしほくそ笑んでいるだろう。こういう迷信が通用しているから、自分たちのやっていることがごまかせるのだと。
官僚の行動基準は良くして省益の最大化、ひどい場合には官僚個人の利益の最大化という「個別最適化」でしかないため、寄り集まった結果国益を損なうことが多いわけです(「合成の誤謬」の典型ですね)。今こそこんな官僚に毅然と立ち向かえる政治家が必要なのですが…