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株で生活できるでしょうか(その1)


株価上昇が長期間になると投資家の懐は温められ、株で生活してみようと考える人も出てくるのでは……私もそうでした。

私が株式投資を始めたのは1974年(38歳)で、今日まで47年間、日本の90年バブル、アメリカで起こったリーマンショックと、大波の「頂点」と「どん底」を経験しています。

株を始めたころの情報誌に、「160万円の資金を2億円にして南の島で暮らす」というのがありました。「1年で倍々にしてゆけば、7年で2億円を超える」というのです。株に夢を抱くようになったのも、大学を卒業し、仕事で成果を上げたのにもかかわらず、出世ではいつもどん尻で、仕事に嫌気を指していたからかもしれません。

「株で生活したいので」と、親に泣きつき生前贈与の100万円で、三共株4千株を買ったのが最初でした。ところがやってみると意外にも簡単に倍々ゲームに乗り、投下資産はみるみる増えてゆきました。当時の社会情勢では、株と仕事は両立せず、株をやっていることがわかると、仕事をさぼっているとみられていました。

そこで仕事でも生活でも、株の「か」の字も表に出さず、持ち株ですらかみさんに教えないで、秘密裏にやることにしたのです。不思議なもので、株で成功を納めると、仕事にも成果が出て、出世競争にも遅れないようになってきました。そして1990年末には、「あと2~3年で」南の島が買えそうな資産になったのです。

そして運命の日がやってきました。株は一気に暴落しバブルが弾けたのです。きっかけは、89年12月に日銀総裁に就任した三重野氏の、大幅な公定歩合の引き上げにあるというのが定説ですが私は違います。株価のバブルを作り、それを弾けさせたのは外国人だと思っています。

89年、バブル最盛期には日経平均採用の品薄株は、ストップ高を繰り返し説明できないほどの高値にありました。お金持ちは土地を、余裕のあるサラリーマンは株を、中小企業の経営者はゴルフの会員権を、ちょっと決断するだけで億という金が飛び込んできました。私のようなしがないサラリーマンでも、知見と資金を株に投資し、大きな成果を上げることができたのです。

ところが、裏でこの値上がりを作っていたのが外国人でした。彼らは少ない資金で品薄株を動かすことで日経平均を引き上げ、一方で大量に日経平均先物を売っていたのです。

90年になると、彼らは抱えていた品薄株を一斉に売り出し、現物株の下落で先物を動かしました。彼らは、先物のヘッジで莫大な利益を上げ、この仕組みを知らない日本の投資家たちは、呆然と暴落を見ているだけでした。こうしてバブルが弾け、日本はその後20年間長い不況に苦しむことになります。

バブルがはじけた翌年の91年には、私の財産も大きく目減りし、ほぼ半分にまで落ち込んでしまいます。でも一度身についた株に対する信仰と成果は、そう簡単に収まるものではありません。バブル前に現金化していた資金を、バブル銘柄の2番天井付近で購入しバブルの最燃焼に備えたのです。

バブルが弾けて以後、1997年の山一証券の破綻までは、終値で15,000円を割り込むことはなく、株価変動サイクルの底値を探る動きが続いていました。私の資産も、半分程度にまで落ち込みましたが、いずれは持ち直すだろうとの期待が支えとなっていました。

そんなさなかの94年に、私は60歳の定年を迎えることになりました。定年のない役員として会社に残る道はあったのですが、同期の口先男が無難に仕事をこなしただけで、社長に昇格したのをみて、私は会社を去る決意を固めました。後で分かったことですが、高潔で仕事一筋と思われていた創業者の息子の社長宅には、連日のようにゴマスリ幹部が集まり、私の悪口に花を咲かせていたそうです。

よし今後は「株で生活しよう」と心に決め、退社後の翌年の95年には有限会社を設立し、長い間の念願だった社長の座を仕留めたのです。資本金は1千万円でしたが、会社の定款に株式の運用を加えて、資本金を含め会社資産のほとんどを持ち株の移転で済ませ、株の運用益で会社を支えることとしました。

株の運用を法人格を持った会社としたのは、当時の税制にありました。法人には譲渡益に対しては所得税が課せられますが、所得控除としての経費の算入があり、譲渡損の繰り越しが認められており、個人の株式運用と比べると、大幅なメリットがあありました。損失繰越制度については、その後の税制改正により、個人にも3年間の損失繰り越しが認められるようになりましたが、その対価として譲渡所得の申告が厳しくなったのはご存じのとおりです。

さて念願の社長のポストを手にしたものの、株の運用では思ったほどの成果を上げられません。資産規模の拡大も配当金も、会社を維持するのはほど遠く、唯一の従業員である社長の給料すら払えない状況が続きました。

名刺には社長の肩書はありましたが、華やかな夜の街でもお金のない社長では、ホステスさんも寄ってきません。この年の税務申告でも、担当の方から「証券業を本業とするのなら証券業の認可が必要では」と、胡散臭い目で見られる始末。翌年からから定款に記した本業を見つけて歩く羽目となりました。

そんなさなか、山一證券の破綻と金融業界の粛清事件が金融市場を襲ったのです。原因となったのは、同社の「簿外債務」でしたが、この破綻は、金融業界を揺さぶり、株価も大きく崩れました。2000年には、ITバブルで一時期20,000円を超える時期もありましたが、2002年にはついに日経平均が1万円を切るところまでになってしまいました。

長くなりましたので、表題の答えを含め、この続きはまた明日に……。ご愛読ありがとうございました。


4件のコメントがあります
  • イメージ
    rafinさん
    2021/11/27 11:00
    興味深い話です。明日の投稿も楽しみにお待ちしております。
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    おちゃちゃさん
    2021/11/27 14:01
    ご無沙汰しております
    これだけでも、わくわく、ドキドキです
    続きが楽しみです(*‘ω‘ *)
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    yuhsanさん
    2021/11/27 21:27
    rafinさん
    おちゃちゃさん、お久しぶりです。

    ハイ、今一生懸命に明日投稿の後編を書いている最中です。
    ご期待に沿えるよう頑張ります!!!
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    ちこ姉さん
    2021/11/27 23:42
    yuhsanさん

    今晩は

    とても、楽しく 物語を読んでる様な ワクワク感と、よく記憶されてるなと言う思いもありました。

    勉強にもなりました。
    続きが楽しみです。
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