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新年の思いで 30年1月3日(水)19時53分

 今年も、宜しく、お願い申し上げます。私の正月の思い出ですが、若い人には分かりずらいと思いますが。

1 小学2年生の頃か、正月は、家のゴミでも、捨てるものでは無いと言われ、当時は、竹で編んだ、ごみ取りに、台所のゴミを「アカザの草」の箒で、入れて、それを、下屋(冬は、物置として使い、夏は蚕のエサの桑の葉を貯めておく)の片隅に積んでおいたものだ。

2 そして、お婆さんに、畳の上で両手をつき、「オメデトウ、ございます。」と言ったものだ。この畳は冬の間だけ敷いておくもので、夏の蚕の時期は、むしろに変わった。


養蚕農家なので、住居と蚕を飼う場所が、同じ家で、ほとんど、蚕を飼う場所になった。家の坪数は、1,2階で200畳はあった。それに下屋が40畳有ったから、家は広かったが、暖房は炭の「こたつ」だったので、寒い家だった。

3 前の年の12月の25日頃、家の大掃除をして、床のむしろから、畳に置き換えたものだ。どこの家でも大体そうだった。そして、お正月飾りをした。このお正月飾りは、天井から4つの棒を下げ、それに板を取り付け、お飾りをする。


お飾りは、お正月様の前に、竹の棒を横に吊るし、それに、お飾りを吊るした。みかんは、藁(わら)で吊るし、8こずつ、2つぶら下げた。


みかんと言っても、当時はお正月しか、食べられなかった。みかん箱と言って、粗末な箱の中にみかんが30個くらい、入ったものを1年に一つ買った。

 このみかんの話は、全国、何処の家でも、同じだと思います。この頃は、日本は貧しかった。まだ、戦後の貧しさが残っていた。池田隼人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したのが、この数年後だった。「貧乏人は麦を食え」と言ったのを憶えている。この頃の食事は、半分が麦ごはんで、米は半分だった。


その他、こんぶ、イカのするめ、ほうずき、さつまいも、里芋などを、お供えした。鮭は、毎年、親戚のおじさんが、お歳暮にもってきてくれたものを、お供えした。この鮭を猫が狙って、正月飾りのとなりのえびす講をいれておく、棚まで上がり、捕ろうとしたが距離があるので、捕れなかった。

正月飾りには、家では、「おんべろ「と呼んでいるが、神社で見る、半紙の下がりである。神社にある結界を、正月飾りの回りに荒縄をめぐらし、その下に8つくらい下げた。4つの端は松の枝を取りつけた。これで、何となく、神様と言う感じになる。

4 このえびす様をいれておく家城に、円空仏が、一つあった。8センチくらいの、ものだった。本家が古い家なので、円空が、泊まったらしい。お礼に、彫ったものらしい。しかし、出来が悪く見えて、捨ててしまった。美を見る目が無かった。

5 正月は、角松ではないが、家の前の畑に、松の枝を2本、立てた。

6 とにかく、農家なので、家を屋敷と呼んでいたが、2反半くらい(800坪)の土地に前が畑で後ろが、家であった。

7 正月遊びは、凧揚げとか、「とっこ」と言って、ギャンブルゲームの、からまめや、菓子、ミカンの一房などを、を絵の上に置き、くじを引き、絵が合うと、他の人のものは、すべて貰えると言うゲームだった。

 8 1月6日の日は、子供会で、数人の子供が、リヤカーで家々を回り、正月飾りの松を集めた。それを、村のはずれに持っていき、村の青年団が、稲わらで作った塔に混ぜた。


翌日の開け前に、それに火を点け燃やし、村の人が集まり、そこで、餅や、するめを焼いて食べた。各地に伝わる「どんど焼き」である。これは、これで正月が終わり、農作業が始まる合図でもあった。

 



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