堅実さんのブログ
死んではならぬ 28年9月10日(土)19時02分
(適当な題が無いのでこうしました。)
不思議体験です。本で読んだか、直接聞いた話です。4年ほど前です。多分、数学者から聞いたと思います。
当時、職場でいろいろ悩んでいたので、その人に話ましたら、こんな事を言いました。私も悩んで、もう死のうかと思って、山に登っていった。丁度良い場所で休んでいたら、突然、天から大きな声がした。「死んではならぬ.死んではならぬ。」だった。その声の大きさは、とてつもなく大きく、その声で、辺りがいっぱいになり、充満していた。近くに雷が落ちたような感じでもあった。しばらく、そこにいたが、下山して、現在生きているという事だった。
その後、その人は、キリスト教に入信して、神父様に、家族の様な待遇を受け、日曜日の礼拝には、必ず行って、何とか今まで、命をつないでいるという。その時に教会に来ないかと言われたが、まだ行っていない。
この事をどう考えるかである。それは、只の幻聴で、その人がそう思っただけだという人もあろう。しかし、その人には、それ以外には幻聴は全く無いという。いずれこれは解明できると思うが、こう考える。それは他人に何ら迷惑をかけないのなら、天の声でよいではないかと。その体験により、その人は命を繋いでいるのだから。
ゼロ戦の戦闘員で、「大空のサムライ」の操縦士は、有る時、ゼロ戦が山に衝突する寸前で母親の声が聞こえ、操縦桿を思いきり引き、目の前の迫った山に衝突せずに、済んだという。(これは、記憶ですので、間違いもあります。何かの本です。)
この二つの話は、危機的状況の中での、「声」である。これは何なのかと思う。
人は生命を維持しようとしている。だから、食べ、運動し、寝ている。しかし、退化した能力がある。こう考えるのがよいだろう。絶対絶命の時の、緊迫した状態では、今まで働かなかった、脳の部分が働いたと考えてもよいのでは。火事場の馬鹿力ともいう。まだまだ人の脳には、眠っている能力があるとも考える。それは原始時代には、必要な能力が、工業技術の発達により、退化しているとも考えられる。
山伏の荒行では、人の肉体の極限状態を造りだし、そこに、新たな、生命の息吹というか、力を感じるという。寒中に滝に打たれるとか。比叡山の千日回峰である。空気が甘くおいしいとか、身体と山とが区別出来ないほど、一つになっているとかである。
パソコンの生活では、こんな事は出来ない。目の前の我欲ばかりが現れ、それがうまくいかないとなると、ひがんだり、落ち込んだり、勝手に自分は不幸だなどと、わがままを言っているともいえる。
そして、それが長時間続くと、短絡的に死んだりする。かなりいびつな、歪んだ価値観の洪水の中で、漂流しているようだ。そこには、自分というものは無く、大衆的価値観に洗脳されている。この世界は、極めて不健康な価値観に満ちている。こんな不健康な価値観が充満している。それならば、やはり、くだらんいい加減な、世間の価値観など、相手にせず、人の持てる本源的能力の開発が、生命力の増強に役立つのではとも感じる。
極限的肉体条件まで、持っていくのは、出来ないことかもしれない。そこまでいかなくても、毎日、散歩するくらいのことは、出来よう。
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筆者から。
生きるための、何かがないかと、思って、考えました。
筆者自身、悩みの塊です。
しかし、この悩みを、社会に役立てればと願い、まとめたものです。
これからも、時々、書こうかと、思っております。
19時20分。
nyajyara さんへ
丁寧なコメントを頂きまして、有難う、御座います。
傘とか、シルバーシートは、よく、あることだと思います。