(略)
量子物理学は、われわれが実際に経験する相互作用についてのみ語ることが
科学的に意味があることを示し、
このプラトン的な鉄の棒のごとき「リアリティー」概念に揺さぶりをかけた。
また、知覚心理学は、プラトン主義的リアリティーが存在すると仮定することは、
われわれはいかにしてカバが交響楽団ではないことを知覚するのか、
というような望みなしの矛盾に至ることを示した。
私たちが経験し、それについて語ることのできる「(複数の)リアリティーズ」だけが、
知覚されるリアリティーであり、経験的リアリティーであり、実存的リアリティー
──それを編集する者として私たちを巻き込むリアリティーズ── なのである。
これらはみな、観察者にとっては相対的である。
ゆらぎ、進化し、拡大したり、より豊かにすることもできるし、解像度を低くすることも、
あるいはハイ・ファイにすることもできる。
これら複数の「リアリティーズ」は、
いくら集めてもジグソーパズルの断片のように
単一の大きなリアリティーにはめこめるわけではないが、
むしろ大きな美術館に陳列されている絵画群や、
ハイドンやモーツァルト、ベートーベン、マーラーのさまざまな交響楽のように、
コントラストによって互いに光を投げ合うのである。
アラン・ワッツはこのことを最高にうまく言った。
「宇宙は巨大なロールシャッハ・テストのインクの染みである」と。
(略)
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★「コスミック・トリガー ~イリュミナティ最後の秘密~」
ロバート・A・ウィルソン著 武邑光裕監訳 八幡書店 1994.4.23.初刷
「新版のための序文」P.406~407より抜粋
この文章を読んだとき、
オイラが企てている小説の書き方を、俯瞰的には、みごとに示唆していると感じた。
そうそう、これしかないはずなんだ。
だからといって、すらすらと書ける段階には、まったく至ってはいない。
まだまだ頭の中で、朧気な淡い雲のようなものとして漂っているに過ぎない。
材料は、あり余るほどある。
けれども、それらを一体どーいった順番で紡ぎ出すのがベターなのか、
皆目、判断ができないでいる。
それに、ひとつの材料を繰り出すとして、
それをどのくらいのスピードで操ったらよいのかも、わからない。
たとえば、最も速い書き方は要約なのだけれども、
「要約ばかりの小説は読むに堪えない」と
デイヴィッド・ロッジは「小説の技巧」の中で書いている。
そうやって、試行錯誤を繰り返している内に、
オイラの寿命が来てしまうような気もする。
まっ、それでもいいか。。
書きたいことがある。
それだけでも極上な幸福なのではないかと、
思うようになった。
これは村上文学から受け取った、最高の贈り物だと確信している。
万が一、彼が他界してしまったとしても、
デイヴィッド・ゴードンや三浦しをんが存命ならば、
残された二人の作品を読みたくなって、
オイラはもう自殺しようとは思わないだろう。
というか、できない。
だって、自分も書いてみたくって仕方がないのだから。
このような、プロットを持たないとされる作家による、
なのに計算され尽くしたかのような贈り物が、
今までこの世にあっただろうか?
一月末日をもって、
新潮社による「村上さんのところ」は終わってしまった。
そのあいだ、この企画を通しながら聴いていた曲。
https://www.youtube.com/watch?v=k-njE4oHtPQ
「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」に写る上空に浮かんでいる月が、
二つに視えていたのは、きっとオイラだけではないのだろう。