ユリウスさんのブログ
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子規の庭
奈良に「子規の庭」というのがあるそうな。今日TVからちらっとそんなことが聞こえたきたので、何故奈良に子規の庭があるのだろうと思って、ネットで調べた。
それによると、子規は明治28年秋に奈良を旅行したらしい。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
柿 photo by 青木繁伸氏の植物園
この年子規は従軍記者として清国に行ったが、すでに戦争は終わったところだった。その帰国途中の船中で大喀血する。須磨でしばらく静養し、病状が落ち着いたところで、松山へ帰郷する。その松山には、友人の夏目漱石が松山中学教師として赴任していた。子規は漱石の下宿に、転がり込む形でしばらく滞在したという。
松山の友人連中が漱石の下宿の一階に集まってたびたび句会を開いた。下宿人の漱石は二階に寝起きしていたが、一階の賑わいが気になって、時々降りてきては座に加わって俳句を作ったらしい。かくして漱石は俳句作りに引き込まれていった。
子規が東京へ帰ることになり、その別れの10月19日、子規は漱石に惜別の句を送った。
行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規
松山出身の子規が立ち去り、東京人の漱石が松山に留まるという、ちょっと風変わりな別れであった。互いに別れ別れになるから「秋二つ」なのだろう。機知に富んだ子規の表現は真似できません。
その後、漱石は英国へ留学、子規は病床に臥す身となる。病に勝てず、ついに子規は明治35年9月19日に逝き、二人の交友は終止符が打たれた。その訃報に接して漱石がロンドンで詠んだ句。
手向くべき線香もなくて暮れの秋 夏目漱石
「余談」
子規は柿が大好きだったという。
ネットの「子規の庭」にこうありました。
對山樓の跡地(現天平倶楽部敷地内)に、樹齢百年以上の柿の木と句碑を中心とした「子規の庭」ができました。子規の愛した野の花を植え込み、四季折々の景観が楽しめるとともに、子規をしのびます。
設計・正岡明氏 造園家。子規の孫にあたります。
余談の余談ながら、小生は囲碁の縁で正岡子規につながるT.正岡氏を存じあげている。氏を介して「正岡会」なるものがあるのも知っている。多分造園家の正岡明氏もその会のメンバーさんと拝察します。
漱石は碁を打ったが、子規は碁を知らなかったらしい。
淋しげに柿食うは碁を知らざらん 子規
それによると、子規は明治28年秋に奈良を旅行したらしい。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
柿 photo by 青木繁伸氏の植物園
この年子規は従軍記者として清国に行ったが、すでに戦争は終わったところだった。その帰国途中の船中で大喀血する。須磨でしばらく静養し、病状が落ち着いたところで、松山へ帰郷する。その松山には、友人の夏目漱石が松山中学教師として赴任していた。子規は漱石の下宿に、転がり込む形でしばらく滞在したという。
松山の友人連中が漱石の下宿の一階に集まってたびたび句会を開いた。下宿人の漱石は二階に寝起きしていたが、一階の賑わいが気になって、時々降りてきては座に加わって俳句を作ったらしい。かくして漱石は俳句作りに引き込まれていった。
子規が東京へ帰ることになり、その別れの10月19日、子規は漱石に惜別の句を送った。
行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規
松山出身の子規が立ち去り、東京人の漱石が松山に留まるという、ちょっと風変わりな別れであった。互いに別れ別れになるから「秋二つ」なのだろう。機知に富んだ子規の表現は真似できません。
その後、漱石は英国へ留学、子規は病床に臥す身となる。病に勝てず、ついに子規は明治35年9月19日に逝き、二人の交友は終止符が打たれた。その訃報に接して漱石がロンドンで詠んだ句。
手向くべき線香もなくて暮れの秋 夏目漱石
「余談」
子規は柿が大好きだったという。
ネットの「子規の庭」にこうありました。
對山樓の跡地(現天平倶楽部敷地内)に、樹齢百年以上の柿の木と句碑を中心とした「子規の庭」ができました。子規の愛した野の花を植え込み、四季折々の景観が楽しめるとともに、子規をしのびます。
設計・正岡明氏 造園家。子規の孫にあたります。
余談の余談ながら、小生は囲碁の縁で正岡子規につながるT.正岡氏を存じあげている。氏を介して「正岡会」なるものがあるのも知っている。多分造園家の正岡明氏もその会のメンバーさんと拝察します。
漱石は碁を打ったが、子規は碁を知らなかったらしい。
淋しげに柿食うは碁を知らざらん 子規
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