堅実さんのブログ
王将、東映映画(6.5.15)9時29分
私は、小学生の頃、将棋を憶え、下手くそながら、あの手、この手と、考えた事があります。中学生の時、三間飛車(飛車がふの前の左から3番目に出る)で、周りを驚かせました。中学生で、こんな手を使うのは、いなかったからです。
また、ユーチューブで、いいものを見つけました。それとなく、坂田三吉が、わかるような気がします。
将棋とか、囲碁、麻雀は、強い者は強い。それは、母集団が、はっきりしているからである。株式は、この母集団が、常に、変化している。具体的には、利益の予想が、常に変化している。だから、先を予想するのは、難しいのである。
「王将」
https://www.youtube.com/watch?v=mv8SKoPmOKg
(ウイキより)
坂田 三(さかた さんきち、1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は、明治から昭和初期の将棋棋士。贈名人・王将。小林東伯斎八段門下、もしくは小野五平十二世名人門下。大阪府堺市出身。
生涯
堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市堺区協和町)で出生。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。
1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公し、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。
1891年(明治24年)頃、関根金次郎(当時三段または四段)と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。
このことで坂田はプロの道を決意したとされる。なお、初手合わせは1892年(明治25年)・1893年(明治26年)・1895年(明治28年)という説、1894年(明治27年)頃という説もある。
また、これまで独学で将棋を学んでいた坂田は、関根を通じて初めて師と呼べる人物に出会う。
関根が当時「大阪名人(関西名人)」と呼ばれていた小林東伯斎(天野宗歩四天王の一人)に会った際に坂田との棋譜を見せたところ、小林は坂田の素質に驚き、自分に紹介するよう関根に頼んだ。関根の仲介で坂田と会った小林は、坂田の才能を褒め、さらに上達するための助言として大駒の使い方などを教えた。坂田は小林との出会いが大変励みになったと懐述しており、これをもって小林門下とすることもある。
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「そうなのですね!私なども30歳代初めころ街場の地上げ屋不動産会社に勤務していた際に、将棋道場に通っておりました。
4間飛車か雁木居飛車でやっておりました。暫く通っていると対戦カードに1~2級と記載されて日本棋院で初段試験を受けるように勧められました。社長の知り合いの不動産業者や地主さんの親父連中の対戦相手にさせられるために、多少なりとも腕を上げなければならなかったのです。 」
「地上げ屋不動産会社に勤務していた際に、将棋道場に通っておりました。」
えらいところに、勤めていたんですね。
まあ、将棋は、奥が深いですね。
「社長の知り合いの不動産業者や地主さんの親父連中の対戦相手にさせられるために、多少なりとも腕を上げなければならなかったのです。 」
商売上の、ためですか。
>将棋とか、囲碁、麻雀は、強い者は強い。それは、母集団が、はっきりしているからである。株式は、この母集団が、常に、変化している。具体的には、利益の予想が、常に変化している。だから、先を予想するのは、難しいのである。
そうなのですね!私なども30歳代初めころ街場の地上げ屋不動産会社に勤務していた際に、将棋道場に通っておりました。
4間飛車か雁木居飛車でやっておりました。暫く通っていると対戦カードに1~2級と記載されて日本棋院で初段試験を受けるように勧められました。社長の知り合いの不動産業者や地主さんの親父連中の対戦相手にさせられるために、多少なりとも腕を上げなければならなかったのです。