―米国経済の基本矛盾とインフレーション―
※本レポートは世界経済評論5・6月号に掲載された論文(2月15日執筆)のアップデート版です。
混迷の時代、基本的リスク観が大転換しつつある。デフレ対策からインフレ対策へ、自由主義から保護主義へ、小さな政府から大きな政府へ、グローバルから反グローバル化へ(国際分業の促進から抑制へ)など、一挙に顕在化した経済観の変化をどのようにとらえればよいのだろうか。政策へのアドバイスも、将来展望に関しても180度異なる見方が共存しているようである。当面の市場展望に関しても、楽観と悲観が交錯するが、論理上では決着がつかない。
しかし、ここ数カ月の米国経済を詳細に見ると、インフレと金利上昇という新レジームが始まったとする見方は、時期尚早のようである(注1)。金融引き締め下での雇用ブームと資金余剰の存在、雇用活況の下での賃金上昇ピークアウトなど、常識では考えられない「好都合の真実」が起きている。それが次の経済拡大の好循環に結び付く可能性すら感じられる。AIネット革命、イノベーションと米国の労働・資本市場の一段の効率化が、米国経済を強靭(resilient)にしているという評価が必要になってくるかもしれない。
(注1) IMF(国際通貨基金)は2023年4月10日発表の世界経済見通し (WEO) の中で2021年後半からの実質金利の上昇は一時的との分析を公表している。
(1)紛糾する政策ゴールの設定、敵はデフレかインフレか
つい2年前まで世界を覆っていたデフレ、日本化(Japanification)のリスクは消え去り、世界経済はコロナ禍によるサプライチェーンの混乱と、ウクライナ戦争を背景とするエネルギー価格の上昇による突然の物価急騰に直面することとなった。主要国の中央銀行は、急速な金融引き締め政策へと転換し、1980年代以降40年間にわたって続いたディスインフレ、金利低下の長期趨勢は大転換した、との観測が一般的に受け入れられつつある。世界各国の経済司令塔が戦うべき敵は、デフレからインフレへと大転換したのであろうか。
同時に、米中対立とウクライナ戦争は、地政学的激変を国際分業に与えた。際限ないグローバル化と国境障壁の引き下げにより、中国がその5割近くを占めていた世界の製造業生産において、国際分業は対中デカップリングで大きく転換することになった。
ハイテク分野においては脱中国のサプライチェーン構築が喫緊となり、拡大一方であった国際貿易は後退し、それがインフレへの影響を加速すると懸念されている。
エネルギー危機と環境変化に対応し、各国は政府と財政の役割を再評価するようになった。米国では半導体産業に巨額の公費を投入するCHIPS法、クリーンエネルギー・EV(電気自動車)支援への支出を促進するIRA(インフレ抑制法: 法人税15%最低税率・薬価改革による税収増を原資金とする)の制定により、財政による産業支援が顕在化した。ハイテクとグリーン産業分野での国際競争に直面し、欧州や日本でも産業への公的支援が強化される流れが不可逆となった。
また、各国で進行中のグリーン投資への原資捻出のための、炭素税の創設・増税、排出権の引き上げなども、原油・天然ガス需給ひっ迫と合わせて、エネルギーコストを引き上げている。こうして過去40年ほどにわたって定着してきた規制緩和と小さな政府による競争促進がもたらしたディスインフレ圧力は、大きく転換することとなった。
この大きな政府の流れも財政収支の悪化から金利上昇圧力をもたらす、と考えられ始めている。1年前までインフレは一過性であるとして金融緩和姿勢を堅持してきたFRB(米連邦準備制度理事会)議長のパウエル氏は、態度を豹変させ、1年間で9回、累計4.75%の利上げを実施し、さらに年内の利上げを示唆するなど、タカ派姿勢を強めている。
(2)デフレリスク進行時代の基本矛盾
まずウクライナ戦争が勃発するまで先進国世界の最大のリスクと考えられていたデフレ化、日本化(Japanification)とはどのようなものであったのか、を概観してみよう。
2000年前後からの日本のデフレ転落以降、世界に忍び寄ったリスクは、企業部門の過剰利潤が退蔵され金利低下と成長率の引き下げという、いわば慢性疾患を米国はじめ先進国経済に与えたことにある、と考えられる。慢性疾患が最も強く進行したのが日本であった。
●利潤率と利子率の乖離
現在の先進国経済には2つの不等式が存在し、体制を危うくしている。
第1の不等式は、「利潤率(r1)>経済成長率(g)」である。「r1=資本のリターン」が「g=成長」よりも大きいという不等式「r>g」は、大ブームになったトマ・ピケティ氏の議論である。トマ・ピケティ氏は、ベストセラー著書「21世紀の資本」の中で、資本のリターンが著しく高い一方で成長が低いことにより、格差が漸次拡大していくことを指摘した。
彼はこの格差拡大を是正するには、資本に対する累進課税を国際的に導入することが必要だと述べたが、最近では社会主義的手法が必要だと主張している(「来たれ、新たな社会主義―世界を読む2016-2021」(みすず書房2022年)。
リーマン・ショック直後、ニューヨークでは、たった1%の人々が圧倒的富を支配しているということで「Occupy WallStreet(ウォール街を占拠せよ)」という運動も起きた。確かに、現在は企業の空前の高収益時代であり、それがもたらす資産価格の上昇と相まって格差の拡大が起きている。それが先進国において中間層の没落と分断を引き起こし、政治的不安定性をもたらしている。
ならば、それだけでこの時代の経済情勢が理解できるかというと、そうではない。それは起こっていることの半面に過ぎず、もう1つ起こっている現実は、成長よりも資本のリターンが低い、ということである。資本のリターンを計測する指標には、利潤率(投下資本利益率=r1とする)と利子率(r2とする)の2つがあり、もう1つの資本のリターンである利子率(r2)は、逆に経済の成長率(g)よりもずっと低かったのである。
この空前の低金利の背後には、空前の貯蓄(=資本余剰)がある。それは貨幣の退蔵を引き起こし、金融政策を著しく困難にしてきた。「g>r2(経済成長率>長期金利)」という不等式は、グリーンスパン元FRB議長が「謎(conundrum)」と言った事象であり、グリーンスパン氏を困惑させた。2004年から始めた金融引き締めにもかかわらず、長期金利が全く連動せず、金融引き締めがしり抜けとなってしまい、流動性が個人の投機的住宅投資を加速させてしまった。
つまり、企業や投資家は超過利潤を享受しているが、それが過剰貯蓄として金融市場内に退蔵され成長率を押し下げ、矛盾を拡大させているという構図である。
これは、同じ資本のリターンであるのだが、企業の儲け(利潤率=投下資本利益率)が上昇し、貯蓄者の儲け(利子率=長期金利)が低下して、両者の乖離が際限なく拡大してきたことを示す。低金利で資金調達をして企業投資をすれば大いなる投資利益が得られる恵まれた環境ではあるが、両者の乖離拡大が続けば、どこかの時点で資産バブルが形成され大恐慌型の経済危機、ひいてはシステムの崩壊すら引き起こす危険要素を内包している。
筆者は2007年に上梓した「新帝国主義論」(東洋経済新報社)の中で、米日で利潤率と利子率の乖離が2000年頃から起こり始め、株高の条件を整えていると指摘したが、驚くべきことにその乖離が20年にわたって定着し、さらに拡大しているのである。
日米の利潤率と利子率を長期にわたって追跡すると、日米ともに2000年頃から両者の乖離が大きくなり、リーマン・ショック後の2010年頃以降に乖離が一段と大きくなったことが明瞭である。
●新産業革命による労働・資本生産性の上昇が余剰を引き起こしている
この企業の高利潤と空前の金利低下という普通ではない現実は、新産業革命(及びグローバリゼーションによる低賃金労働の享受)がもたらした生産性向上により、企業が著しい超過利潤を獲得していることに根本の原因があると考えられる。つまり、企業は大儲けしている。しかし、儲かったお金を再投資できなくて遊ばせ、金利が下がっている。
先進国で顕著になっている金利低下は資本の「slack(余剰)」が存在していることを示唆している。また、雇用と賃金の停滞(失業率高止まり、低労働参加率、弱賃金上昇力)は、労働余剰「slack」の存在を示している。
IT、スマートフォン、クラウドコンピューティング、AI(人工知能)などの新産業革命は、グローバリゼーションを巻き込み、空前の生産性向上をもたらし、労働投入の必要量を著しく低下させている。それは直ちに企業収益の顕著な増加をもたらすと同時に「slack(余剰)」を生んでいるのである。ネットデジタル革命による労働生産性の向上、労働投入量の減少は、コロナパンデミックを契機とした在宅勤務、リモートワーク、Zoom、Teamsなどを使ったリモート会議などで一気に拡大し、一段の生産性向上と働き方改革を促している。
また、技術革新はデジタル機器をはじめとする設備機器の急速な価格低下を引き起こし、米国でも日本においても企業は減価償却額をすべて再投資する必要がなくなって久しい。
アップル
これらは資本生産性の向上(単位資本当たりの生産性向上)と言え、それが企業のキャッシュフローを恒常的にプラスにしている。米国におけるフリーキャッシュフロー(キャッシュフロー―設備投資額)の推移をみると、恒常的にマイナスであったものが、2000年頃から恒常的にプラスに変わってきていることが明瞭である。
かつてのリーディングカンパニーであるゼネラル・エレクトリック
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