昭和時代に祖父が公認会計士をやってたので私は祖父に抱かれて
育ち保育園に登園する前に教育を受けていて父の自慢は祖父でした
母は祖父が戦時中の事を耳にタコが出来る位に会話してて幼いながら
聞いて育ちその頃には、お買い物の計算などを見様見真似でおこなって
学習機能などと言う言葉が知れ渡る頃では無く母が育児を楽しみに
してました。そして町を束ねる方などに聞いて大人が立派に育つ様に
町で世話をする方々が居て友達など世話をする教育などが備わって
いました。処が父の職業は彫師で地域の組などを束ねていました。
そして私は炭鉱とやくざの街が栄えていて父はお香り彫りが出来て
いていまだに香る彫り士はいません。大阪と九州のヤクザの抗争など
平和的に治めるのに父は私を連れて大阪に行って介入する為に私を
連れて行きました。そして事務所に行き宴会の場が開かれ食事が出て
来て。数年前に亡くなった渡辺組長が料理長をやっていた料理を食べて
会談の宴会の時に父は用心して私を毒見役としていたのが問題になり
騒然としましたが、そんな状況の中で日本の治安とベトナムの終戦と
復興の問題があり父は私に戦場の状況を伝え計画を私が父に伝え道を
激戦の中で両者が止めるのを聞かないので終戦が早く来る様に資産を
貯めて両者が戦いに疲れて来て終戦になった事を確かめて復興の仕事を
始め資産を使いインフラなどに投資して金融などもおこない大阪の
人材も加えて丸ごと方向性を変えて治安維持を成功させました。
復興の仕事は小さく初めて村を町にして下水道などを装備し徐々に
建設など加え芸能などの興行もおこない金融街を作り現地の方を
採用して教育してたのが成功の秘訣と思います。