私のほうは、すくなくとも一分間は、水中で目を開いて、もちこたえられるのに、
そのあいだに彼女のほうは、驚きと恐怖と経験不足のために、
すぐさま致死量の水を飲んでしまうにちがいないからだ。
犯罪をもくろむ私の心の暗闇を流星の尾のように断末魔の身ぶりが一瞬よぎった。
それは男の踊り手がバレリーナの足をつかんで
水のように淡い闇のなかを疾走する怖ろしい静かなバレーに似ていた。
彼女を水中に押さえつけたまま浮かびあがって大きく呼吸し、
それからまたもぐることもできるだろう。
必要なだけ何度でもそれをくりかえす。
そして、彼女の上に死のとばりが垂れたとき、
はじめて救いを求めるのだ。
そして、約二十分後に、あの二つのあやつり人形が、
半分だけペンキを塗り直したボートに乗って、
だんだん影を大きくしながら、そこへ到着したときには、
哀れなハンバート・ハンバート夫人、
痙攣か冠状動脈閉塞か、あるいはその両方の犠牲者は、
アワーグラス湖の晴れやかな湖面から三十フィートばかり下の黒い泥のなかに
頭を突っこんで逆立ちしているだろう。
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★「ロリータ」
ウラジミール・ナボコフ著 新潮社 S55.4.25.発行 H10.12.5.二十八刷
P.131~132より抜粋
横溝正史は、きっと「ロリータ」をどこかで読んでいたにちがいない。
抜粋した最後の箇所を読んで、
「犬神家の一族」における、あのセンセーショナルな湖面での逆立ち死体を想起したのにちがいない。
都内から酔っぱらって乗っていた横須賀線のなかで、
何度も何度も、この逆立ち死体の場面を想起していたにちがいない。
鎌倉へ着くまで、何度も何度も。
桜庭一樹が「私の男」で描いてみせた、
氷河に乗せた登場人物を、主人公の女が蹴飛ばして海洋へ送り出し、
殺してしまう場面も同様だ。
その小説のハイライト場面として想起しながら、
「これでもらったぜ」みたいな感慨にふけっている作家たちの様子が、
目に浮かぶようだ。
桜庭一樹は執筆時に、
お気に入りの、あるいは参考にした小説をデスクの周りに山積みにして、
そしてそれら作品を自分の守護神のように感じながら、
魔女が魔法でも唱えるようにして筆を進めているのだという。
氷山に誘った人物を蹴飛ばして殺してしまう場面というのが、
桜庭のオリジナルな発想なのか、それとも参考にした作品があるのか、
オイラはまだ知らない。