反米政策で知られた大統領、ウーゴ・チャベス。
1999年に「第五共和国運動」から、1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した[6]。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米とポプリスモとボリバル主義を掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。
チャベスはジョージ・W・ブッシュ政権以降は反米路線を掲げた。2002年、アメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったんは失脚したが、全国的な国民のデモの激化[6]、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。こうした経緯もあり、チャベスは反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。
一方で隣国である親米国コロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結し、ベネズエラ軍の軍備増強を発表、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され[7]、3週間後の8月11日には国交回復で合意した[8]が、依然として不安定な状況が続いている[9]。
ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった[10]。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある[11]。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており「こんにちは大統領」のようなテレビ番組も放送されていた[10]。チャベス大統領はワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決しないまま2013年3月5日、チャベス大統領は癌により死去した。
現在のベネズエラの経済は完全に石油に依存しており、輸出収入の8割ほどが石油である(2003年現在)
が、石油部門が雇用するのは就労人口の0.5%にすぎない。
OPECの原加盟国であり1960年の設立に際して重要な役割を果たした。
中南米でトップクラスの高所得水準でポーランド、ハンガリー、クロアチアのような旧共産圏の東欧に近い水準であり、その背景には豊かな鉱産資源があげられる。
しかしながら、貧富の差が非常に大きく、ごく一部の層に富が集中しており、国内には膨大な貧困層を抱える。
また、農牧業の生産性は低く、食料品の半分以上を輸入に頼る。