(略)
”イン・メディアス・レス” という言葉をご存じだろうか。
”いきなり話の核心へ” を意味するラテン語で、
古来より正統的な小説作法のひとつとされてきたものだが、
私個人としてはあまり好きでない。
”イン・メディアス・レス” はフラッシュ・バックを必要とする。
四〇年代から五〇年代の映画を思わせる凡庸で陳腐な手法だ。
画面がぼやけ、声にエコーがかかると、とつぜん十六ヶ月前で、
ついさっきまで泥まみれになってブラッドハウンド犬に追いかけられていた脱獄囚は、
新進気鋭の弁護士になっている。
悪徳警察署長殺しの濡れ衣はまだ着せられていない。
一読者として、私はすでに起きたことよりも、
これから起きることのほうにより興味がある。
もちろん、私の好み(もしくは偏見)の逆をいく優れた小説は少なくない。
ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』しかり。
ルース・レンデルがバーバラ・ヴァイン名義で書いた『死と抱擁』しかり。
(略)
もちろん、順を追って話を進めたとしても、どこかで背景情報に触れないわけにはいかなくなる。
現実問題として、人間の暮らしというものはすべて”イン・メディアス・レス”である。
(略)
それをどこまで、どんな風に語るかが作品の出来を左右する。
それが読者の小説全体に対する評価の分かれ目になる。
(略)
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★「書くことについて」
スティーブン・キング著 田村義進訳 小学館文庫 800円+税 2013.7.10.初版第一刷
P.301~302より抜粋
某ベテラン・シナリオライターも、同様のことを述べていた。
そのライターの知り合いの場合だと、
回想場面が出た瞬間にそのコンクール作品を落とすのだという。
上でスティーブン・キングが言うとおり、それくらい陳腐だということらしい。
個人的には、「ゴッド・ファーザーPart2」のように、
現実と回想場面とで交互に話が展開するものがあったって、イイと思うのだけれども。
(ただし、そう描いたのは、「ゴッド・ファーザー」があっての戦略なのかも知れない)
流行に乗って書くのか、それとも敢えて逆らうのか、
相場と一緒でなかなか難しい問題なようだ。
PS:大沢在昌の「新宿鮫」で、第一巻か二巻だったと思うけど。
かつて鮫島が、右翼系警察官に襲われるシーンは、回想表現だった。
(そう思えた)
オイラのレベルな読み手だと、それが駄目だなんて感じないし、オモロかったけどな。
もうひとつ、鮫島がかつてエリート街道にいて、公安内部抗争に巻き込まれたという話は、
地の文で語る背景描写といえるのだろうか。
わかったような、わかんないような。。
PS2:クリント・イーストウッド「ファイアーフォックス」は、どーするんだろう。
あの回想場面がなかったら、きっとつまんないぞ。。