数年ぶりに米国出張が入り、現地の仕事相手に囲まれ、話をしながら、いろいろなことを考えました。
仕事から気づいたことがあったので、忘れないように書いておこうと思います。
今回の仕事では、仕事のフローを示した指示書(仕様書)があったのですが、同じようなテーマにも関わらず、日本と米国の指示書に明確な違いがありました。
それは、「もし問題が起きたら・・・」という一文です。
米国の指示書には、明確に、この言葉が入っています。そして、「それでも解決しない場合は・・」という具合に、可能性としてはまずないということまで記述してあるんですね。「その場合は、誰を責任者とする」という具合に、例外処理と、責任者が明確に割り当てられているんです。
日本の場合は、問題が発生しそうにないことは、(基本的に)書きません。契約書などを見ても、日本語の契約書と、英語の契約書は厚さが違います。何か問題が起きたら、その時に協議しましょう的な発想です。それが当たりさわりがないからでしょう。また、責任者という意味では、責任はみんなで取るというような雰囲気があります。誰か1人の責任にしないという姿勢もあると思います。
ちょっと極端に書きましたが、こうした傾向があるように思うのです。
日本的な考えでは、1人1人が責任を共有して対応しているので、普通の範囲ではそんなに悪い結果にはならない場合が多いのですが、限度を超えるととんでもない結末になってしまうような気がします。みんなで進んでいるうちに取り返しがつかないところまで進んでしまうのです。
例えば、太平洋戦争突入の状況とか、今回の原発事故(人災)とかが思いあたります。
誰の責任と問い詰めても、あっちにもこっちにも責任が分散していて、誰かに集中していません。こういうことは日本の特徴だと思いました。この違いについては、どこかでもう1度よく考えてみたいと思っています。
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リサランドールさん、コメントありがとうございます。
なるほど。
確かに、縁起でもないという理由で、そういう言葉を使うことを避ける習慣が、日本にはありますね。
裏返せば、思ったことは起きるということなんでしょうね。
仮にこの考え方でいいとしても、日本国内で生み出してきたものでもなく、海外からもらった技術を、中身も完全に自分達のものにしない状態で、100パーセント安全としてしまったところに問題があるのかもしれませんね。
もうちょっと考えてみると、、、、
結婚式や、受験は、自分を信じていれば、もしもは考えなくてよいということだと思います。
今回の原子力事故は、誰かが自分(達)を信じていたんですかね???
単に、(経費削減のため?、責任転嫁のため?)そう信じたかっただけで、それが今回の結果を招いたような気がしてなりません。
こんばんは
私は、以前から思っていることなんですが、昔から日本には、言霊信仰というものが日本にはあります。
例えば、結婚式で、別れる、切れる。受験生にスベル落ちるという忌み言葉があります。
原子力発電所では、避難訓練をしない。
というように、避難訓練をすると、事故があるという前提になります。
それが、100パーセント安全なのだから、避難訓練をしない、という考え方に繋がっているのではないでしょうか?
ハクゼンさん、コメントありがとうございます。
> 解答があるテストで100点満点をとるのがエライ。
> それ以上があるとは考えない。
> それ以上があるとは考えない。
そうそう。これも私がいいたかったことに関係あります。
今の世の中、解答がない問題をどうやって解くかというところが大切です。
それなのに相変わらず、子供たちを塾に長時間詰め込んで、穴埋めや暗記、解法パターンを教えています。それで100点取った人たちが国を動かしています。
大災害のように答えのない問題が出てくると、どうしていいかわからない。
そんなパターン化した教育より、自分の独創的な考えをまとめたり、サバイバル力を磨くような、教育に変えていく必要があるんでしょうね。
オーブさん、コメントありがとうございます。
そうですよね。
判断の間違いは誰にでもあることですが、日本の場合、誰が判断するかに
時間がかかりすぎていますよね。
戦う前から負けているとなるんでしょうね。
すきまを突っつくと「へりくつだ」って言われちゃう国ですから。
解答があるテストで100点満点をとるのがエライ。
それ以上があるとは考えない。
そういう教育を施していますからね。
解答があるテストで100点満点をとるのがエライ。
それ以上があるとは考えない。
そういう教育を施していますからね。
同感です
誰が判断をするか
明確にして
責任は後で検証すれば
先の失敗に学びましょう