私は九州に住んでいた頃に
昭和天皇から相談を受けて
昭和の戦後復興が徐々に
おこなわれ公団公社や
役所などが活気が着こうとしている頃に黒電話が出来て、私の住まいにも
電話が開通して、テレビもあって刺激などを受け発明ブームなどが
近所で始まってました。私はその頃に芸能界の芸能人に認めない係を
皇太子から命令されてましたが私は皇太子の前では了解をしてましたが
私は末広がりにテレビやラジオの時代が来ると信じて芸能人に許可する事を
和田アキ子さんや研ナオコさんやタモリさんに許可してました。
すると皇太子に呼ばれ私は許可した事で鉄拳制裁にあってました、父は
その頃どこから仕事を持って来るのか解らないのですが、父は右翼から
仕事を仕入れていたのでしょう。右翼だったら話がまとまります。
その頃は大阪に父の付き添いで同行して行ってました。私は母から短歌の
趣味を教わっていたので音楽の音が聴こえると作詞を趣味にして歌を作って
歌ってました。大阪で会った歌手に酒と泪と男と女を即興で歌って見せると
歌わせて下さいと言われたのですが父が仕事としての対価を求めたのに
彼は払わず自分の曲として世に出しました。しかしそれから芸能界の構築を
私がおこなう事になり興行などを父が仕切り資金が出来ると雪だるま式に
お金がお金を産む方式のルールを決め会場などを建設したり印刷所に注文を
出したり建設と興行を請け負い芸能界の役職をしてました。
そして私は裏では皇太子の鉄拳制裁にあっていて三島由紀夫さんが顔を見て
誰に暴力を受けたのか聞かれ皇太子の平成天皇と告げると三島由紀夫さんは
皇太子に試合を申し込んで仇を取ってくれたのですが三島由紀夫さんを責め
自殺するまで追い詰めたのですが、私は止めたのですが自殺して死を選んで
しまいました。作家をおこなっていただけに想像力は群を抜いてました。
こうした会場を作り会場の行事の日程を管理し町に投資して町を栄えさせ
て来た事が体で覚えているのでベトナム復興などにも支援出来たのです。
