テレビの録画番組が多すぎて、容量が足りなくて、途中で終わってしまったが、それでも十分だ。私の小さい頃は、戦後であったが、その生活は「火垂るの墓」と、ほとんど、変わらないものだった。
家は農家だったが、社会は食糧難で、とにかく、味はどうでもよいから、収穫量の多い種類を、農林省は研究していた。さつまいもでは、農林何号とかいって、味はとても不味くて、食べると、びしゃびしゃした食感の、黄色のさつまであった。それを、3時のおやつに食べたものだ。
きゅうりと言えば、今では冬でも食べられるが、当時は夏の食べ物だった。家ではきゅうりを栽培していたが、それを食べるのに、長さが30センチ、直径が10センチになるまで、未だ、早いといって、収穫しなかった。そして、その味も、いまいちだ。
幼ななじみの友人の父親は、軍隊から帰り、軍隊の鉄兜と、小銃の先に付ける、銃剣を持ち帰った。それを持って遊んだ記憶がある。その父親は農作業に出るときは、軍隊で使用した、ベルト製の「きゃはん」を足に巻いて出かけた。ゲートルとかゲーベルとか言っていたと思う。包帯の厚いものである。
そんな時代で、トマトなどは、高級品であった。栽培が難しいのである。ただ、茄子は栽培しやすく、家では10本ほど苗があったので、一日に10個くらい採れた。食べるお菓子も無かったので、糠漬けの茄子をまるごと食べた。結構おいしかった。
押し売りがよくきた。「ゴムひもを買ってくれ」というのである。何時まで、たっても帰らない。20分くらい粘っている。ゴムの値段もかなり高くて、今では、1メートル500円くらいか。要するに、形だけ売って、金を奪い取るのである。「俺だって生活できねえからさ。」とか言って粘るのである。
アイスキャンデー屋が、自転車で鈴を鳴らして売りにきた。それを買って食べた。一つ、5円くらいか。
午後は紙芝居が自転車で、回ってきた。水飴を一つ5円で売り、紙芝居を見せた。水飴が買えない子は、見せてもらえなかった。子供心に可哀そうだと思った。しかし、どうにもできなかった。
ご飯と言えば、麦が5割、米が5割であった。今では健康食とされているが、麦が5割だと、びしゃびしゃして、うまいとは思わなかった。
行商の魚屋が自転車で魚を売りにきた。秋になると秋刀魚が出るが、当時は冷蔵庫が無かったので、秋刀魚を焼くと、はらわたが、解けて、ぼとぼとと炭の上に落ちた。食べると半分、苦い味で、腐りかけの秋刀魚である。
しかし、そんなものだった。今では、寄生虫が問題になっているが、その寄生虫さえ死に絶えたような秋刀魚である。しかし、寄生虫は生きていた。学校の弁当には、秋刀魚の後ろの方がつけられた。弁当には、他は「梅干し」と白菜漬け、沢庵くらいだった。
農家なので、漬物には困らなかった。沢庵漬け、白菜漬けなどは、冬は毎日食卓に出た。今では植物性乳酸菌で、健康食品であるが、当時はそんな知識は誰にも無かった。
農作物の肥料は、当時は人糞(じんぷん)が殆どで、これが寄生虫の原因でも、あった。人糞を野菜にかけるので、前橋市でもそれを食べるので、何処の家でも回虫に悩まされた。
わら半紙と言えば、若い人には、分からないが、紙が不足していたので、稲わらを紙にしたものを使った。茶色で粗悪品である。それに先生がガリ版刷りをして、生徒に配った。
着ているものといえば、ズボンの、つぎはぎは、当たり前で、誰のズボンもつぎはぎだらけだった。木綿のズボンなので、すぐにすり消えて、穴があく。そんな時代だった。しかし、その頃は、不潔恐怖症など無かった。不潔恐怖症は現代病である。果たして、文明は人々を幸せにしたんだろうか。