関ヶ原の合戦において、西軍最大の1万7千もの兵力を率いて奮戦した宇喜多秀家。 他の有力大名たちが戦意希薄な中、秀家だけは打算もなく真面目に豊臣家のことのみを考えて最後まで戦い抜きました。
ドラマなどでは、まっすぐな人物として描かれることが多い秀家ですが、実際はどうだったのでしょうか。
秀家の父の宇喜多直家は、かの有名な「戦国の7梟雄」にあげられるほどの策士で、謀略を多用する悪逆非道の人物として知られています。
後に侵攻してきた羽柴秀吉に臣従して、本領は無事安堵。 直家の死後も秀家は秀吉に気に入られ、秀吉の養女「豪姫」を正室とし、豊臣一門の扱いをうけます。
その後もトントン拍子に出世して、朝鮮出兵の軍功により、中納言。 そして、24歳の若さにして5大老の一人に抜擢されました。
5大老の他の4名、徳川、上杉、毛利、前田に比較すると、経歴からしていかにも見劣りするのですが、それほど秀吉に気に入られていたということなのです。
実は、この秀家の破格の出世ぶりには、無論本人の努力もあったでしょうが、それ以上に実母の「お福の方」の尽力が、大きくかかわっていたとされています。
お福の方は絶世の美人といわれ、直家の死後に秀吉の側室となったのですが、秀吉に寵愛された彼女の援助が、秀家のスピード出世に陰ながら貢献したわけです。
秀吉もこの親子には特別な愛情を持っていたようで、秀家にしてみれば、秀吉は父親のような存在に思えたのでしょう。
大河ドラマ「真田丸」でも高橋和也さん扮する宇喜多秀家が、内野聖陽家康の横暴に憤激するシーンが見られますが、秀吉との関係を思えばうなずける光景です。
それから、関が原の本戦に入るわけですが、西軍の中でやる気満々だったのは、おそらく石田三成とこの宇喜多秀家2人だけだったのではないかと思われます。
最初に東軍と激突したのも宇喜多隊でした。 相手は豪勇を持って鳴る福島正則隊。 兵力は6千しかいませんが、千軍万馬のつわもので手ごわいです。
両隊は押しつ押されつの大激戦を展開。 数では勝る宇喜多隊ですが、福島隊には可児才蔵という名将がいて苦戦。 ようやく優勢になったかと思うと福島正則自ら前に出てきて
「退くな! 退くな! 敵に後続の兵無し! 恐れず押し返せ!!」
と怒鳴りちらして態勢を立て直します。
こうやって両軍伯仲状態が続きましたが、正午過ぎに小早川隊裏切ってからは、さすがの宇喜多隊も浮足立ってしまい、逃亡者が続出、敗走を始めました。
秀家は、秀秋の裏切りに怒髪天を衝くほどイカりました。
「 おのれ、かくなるうえは、裏切り金吾と刺し違えてくれん。」
激昂して小早川隊へ突撃して切り死にしようとします。
しかし、忠臣の明石全登に「まだ大阪には秀頼さまがおられます」と諫められて、背後の伊吹山に向かって落ちのびていきました。 やっぱりドラマ通りのまっすぐな人だったようです。
その後の宇喜多秀家ですが、逃亡の果てに、隠居していた実母のお福の方の
屋敷に逃げ込みます。
お福の方は、秀家が無事なことを知って、たいそう喜びましたが、秘密の洩れるのをおそれて、正室の豪姫にも知らせませんでした。
ここに1年ほど潜んでいたのですが、徳川の忍者らしきものが邸内をうかがうので、船で薩摩にわたりました。
薩摩藩主、島津家久は、そのことを知っていましたが、関ヶ原で立派に戦った秀家を密告するようなことはしませんでした。
しかし、3年後、徳川の忍者に嗅ぎつけられて万事休す。 家久は秀家を自首させ、死罪だけはまぬかれるよう必死に家康にとりなしました。
そうして、宇喜多秀家は1606年、八丈島に流罪となったのであります。
そして、秀家は12人の従者とともに八丈島に流されて、以後この辺境の孤島で50年の歳月を過ごすこととなります。
秀家の、八丈島での生活をよく示しているエピソードがあります。
八丈島には「島奉行」という役人(島で一番エライ人)がいて、新任の谷庄兵衛という島奉行が、かの有名な罪人である宇喜多秀家を、仮屋に招待したことがありました。
ところが、秀家は出された握り飯を一つだけ食べて、残り2つは紙につつんで持ち帰ってしまいました。
これを見た庄兵衛は、秀家をいたく憐れんで白米一表を贈ったそうです。
こんな生活を50年続けて、宇喜多秀家は84歳で波乱の一生を終えました。
秀家の墓は今も八丈島に残っているそうです。