戦国時代で最大の大合戦、関ケ原戦役。
東西両軍が激しくぶつかり合う中、西軍に属する薩摩の戦国大名、島津18代当主の島津義弘(当時は剃髪して維新と号していた)の陣へ石田三成の使いとして、八十島助右ヱ門という武将が、馬を走らせてやってきました。
戦闘が始まって2時間以上たつというのに、なぜか戦闘に参加しない島津勢に参陣を促すため、三成が使者を派遣したのです。
「なにとぞ、直ちに戦闘に参加していただきたい」
ところが、この八十島という人。よほど慌てていたのか馬に乗ったまま口上を伝えたため
「馬上からの口上、無礼千万!」
島津維新は烈火の如く怒り、八十島を追い返してしまいました。
しかし、隣の小西行長隊が苦戦しているというのに、助けもしないで傍観しているのだから、注意されるのは当たり前。島津維新は、何をそんなにイカっているのでしょうか。 それにはちゃんと理由があったのです。それは・・
関ヶ原の合戦に至る前。墨俣という所で東西両軍が対峙したとき、石田三成が退却する際、島津勢を置き去りにしたことがありました。そのときは維新の知略でどうにか味方を救出することができたのですが、このとき三成に対する不信感が芽生えてしまいました。
そしてその夜のこと、西軍宇喜多秀家が1万7000もの大軍を率いて到着。もちろん、東軍はそのことを知りません。 東軍は絶対に昼間の勝ちで油断しているはず。直ちに、維新は夜討ちを提案しました。
ところが、東軍の総大将徳川家康さえも一目置いている、戦上手の島津維新の意見に、三成は全く耳を貸そうとしませんでした。
三成は家康の放ったデマ情報 (三成の居城佐和山を攻めるというもの) に引っかかって、関が原に誘い出されようとしていました。 これでは野戦を得意とする家康の思うつぼです。
島津維新は落胆しました。島津勢はたったの1500人。 いくら戦上手とはいえ、数が物をいう野戦では絶対に不利です。 このとき維新はこう決心しました。
「島津は島津の戦いをしよう」
そうして迎えた関ケ原。 八十島が怒られて帰ってきたので、今度は三成が自ら説得に来ました。しかし・・
「今日の戦いは、各隊が各個の戦いに全力を尽くすのみ。前後左右の隊の戦いをかえりみている暇はない」
と言って相手にしませんでした。
このとき三成は悔しい思いをしたでしょうが、ひとつ言えるのは島津勢が少数なので、軽んじた扱いをしたこと。それがこんな形で跳ね返ってきた訳です。 よく会社でも、上の人にばかりいい顔をする人がいますが、あとで煮え湯を飲まされることもありますので、なるたけ皆に公平に接するようにしたいものです。
さて、そうして迎えた正午過ぎ、かねてから不穏な気配のあった西軍、小早川秀秋は、案の定裏切って西軍大谷隊へ突撃。 西軍総崩れとなり、最後まで頑張っていた石田隊も、午後2時ごろについに壊滅。
そして、とうとう残るは島津隊だけになってしまいました。しかもこれまでの戦いで戦力は消耗し、残るはわずか300人。
さて、どうするか。 普通、こんな場合は後方に逃げ出すものですが、数が少ないので、あっという間に全滅してしまうのは必定。そこで維新は思い切った策をたてました。
「されば、敵中を突破する、それしかなか」
意表をついたイチかバチかの敵中への強行突破で、死中に活を見出そうとしたのです。
「いくぞ、遅れるな!」
残る島津勢300人、全軍総火の玉となって、大喚声を上げながら目の前の福島正則隊へ向かって突撃を開始します。
さしもの豪勇をもって鳴る福島隊も、あまりの気迫にのまれたのか、おもわず道を開けてしまいます。(福島正則は島津義弘をひそかに尊敬していたらしい) そうしてから、今度は徳川家康の本陣をかすめて敵を蹴散らし、関が原を脱出することに成功しました
だが、東軍諸隊も奇策に一瞬たじろぎはしたものの、ややあって我に返り、嵐のような追撃を開始。
やがて捕捉され、島津勢は次々とたおされていきますが、さすがは薩摩人、頑強に抵抗します。
島津勢は「すてまかり」という戦法を使いました。これは何人かが捨て石となって死ぬまで敵を足止めし、全滅するとまた新たな何人かが同じく死ぬまで戦うという、壮絶な戦法です。
しかしそれでもなお敵を食い止めることはできず、ついに追撃の手は大将の維新に迫ります。維新も死を覚悟。
そのとき近臣の阿多盛淳が身代わりとなって、敵中へ突撃。
「われこそは、島津入道維新なり!」
獅子奮迅の激戦の末、ついに討ち死に。このとき、息子の豊久も戦死してしまいました。
そのとき家康から追撃中止の命令が伝えられ、維新はかろうじて脱出に成功したのでありました。しかし猛烈な追撃のせいで、このとき付き従う兵はわずか80名となっていたそうです。
その後国元へ帰ってからも、維新は徳川と一戦交えることも辞さない覚悟でいました。 しかし5年後、家康は根負けしたのかついに島津を許し、島津維新義弘は関が原から19年後に85歳で大往生をとげました。
関ケ原戦役において島津氏は敗れはしましたが、島津氏のこの壮絶なな戦いぶりが、のちの幕末維新への起爆剤となってつながっていくわけです。