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三成に最後の忠告 大谷吉継

 石田三成の無二の親友、大谷吉継は越前敦賀5万石の城主。官位が刑部少輔だったことから、通称、大谷刑部とも呼ばれます。


 大河ドラマ「真田丸」では、片岡愛之助さんが演じておられ、なにかと誤解を受けやすい石田三成を、フォローする様子がよく描かれています。


 自分の事を、よく理解してくれている大谷吉継のことを、石田三成も最高に信頼していて、徳川家康を打倒する企ても、真っ先に吉継に打ち明けました。


 家康が会津上杉討伐に兵を起こした時、大谷吉継もそれに従って敦賀を進発しました。その途中、美濃垂井に進んだ時、石田三成から 「挙兵して家康を倒す」 との計画を聞かされました。


 聞いて吉継は唖然としました。家康は250万石の大大名。かたや石田三成はたったの19万石。 全然相手にになりません。


 心配した吉継はその計画の無謀なことを、三成に言い聞かせましたが、全く聞く耳を持ちません。


 結局、吉継はいったんはその話を断って、垂井の宿に戻りました。そしていろいろと思いを巡らします。


 吉継は家康とも仲がよかったので、ますます悩みます。どう見ても家康についた方がよさそうに思えます。


 しかし三成は、長年の友情を思い、自分を信用して大事を打ち明けてくれた。



 それにどうしても引っかかることがひとつあります。それは・・


 実は大谷吉継はらい病に罹っていて、後には頭巾で隠さなければならないほど、醜い顔になってしまっていました。


 ある時、茶会が催されたことがあって、茶会の時は、お茶を回し飲みするものなのですが、ライ病に罹っている吉継が口を付けた茶碗は、誰も飲もうとはしません。飲んだふりをするだけ・・


 でも、三成だけは違いました。 ためらうことなく口をつけて飲んだのです。


 そのことを思い出した吉継の腹は決まりました。


 「 三成のために死のう 」



 三成と再会した吉継は味方に付くことを約束。しかし、喜ぶ三成に対して、吉継は落ち着いて、次のように忠告しました。


 「 貴殿は誰にたいしても、礼儀作法ともに横柄なところがある。人の上に立ってことをなすには人望を得なければならない。


 そのことをよくわきまえ、今回の大事も毛利輝元殿と、宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はその下についてことを進めるようにしなければならない。

 

 それと、貴殿は知恵才覚においては並ぶ者はいないが、勇気の点で欠けているように思う。 


 今回の企てにはいろいろな大名が一味するだろうが、基本は貴殿なのだから、人より先に身命をなげうつ覚悟を決めていただきたい。


 あえて色付きにしましたが、なんでも事をなそうと思ったら、自分自身が犠牲になる覚悟をしめさないと、人はついてこないんだ、という事をこのお話は示していると思います。



 さて、そうして迎えた関ヶ原の大合戦。 大谷吉継はかねてから裏切りの噂のあった小早川秀秋の隣に布陣します。 いざというときには、自分が盾になろうという覚悟です。


 小早川秀秋は15000もの大軍勢。それに対して吉継は5000。敵が3倍では防ぎきれないので、朽木、脇坂、小川、赤座の4隊4000を指揮下に入れて小早川の離反に備えます。 そうすると15000対9000になるのでなんとか勝負になる勘定です。


 取り決めでは、石田三成がのろしをあげるのを合図に、小早川隊が戦闘に参加することになっていました。


 しかし案の定、のろしがあがっても小早川隊は動きません。悪い予感。


 その後、正午過ぎ、ああ、やっぱりついに小早川隊15000は西軍を裏切って怒涛の如く、大谷隊に突撃してきました。


 でも吉継はそのことは、予想していたことなので、あらかじめ手配していた精鋭部隊に命じて、反撃させて押し返します。


 ところがここで、吉継が予想していなかった、第二の裏切りが起きます。 吉継の指揮下にいて、戦況を傍観していた朽木、脇坂、小川、赤座の4隊がいきなり大谷隊の側面に向かって、攻撃を開始したのです。


 これは全く想定外の出来事だったため、大谷隊は大打撃をこうむることになりました。


 小早川隊も戦列をたてなおして反撃。そこへ東軍の藤堂、京極、織田有楽の諸隊が殺到。 さしもの知将大谷吉継も、もはやなすすべもなく、敗北を悟って自刃しました。 享年41歳。


 自刃するとき吉継は、らい病に罹って醜くなった自分の顔を見られたくない、として、近習の湯浅五助に「決して敵の手に渡してはならぬ」と命じ、五助もその命をよく守り、袋に入れた首を関ヶ原の地に埋めて、ついに発見されることはなかったそうです。


 


 


 


 


 






 

2件のコメントがあります
  • イメージ
    hituji-jpさん
    2016/5/16 01:37
    こんばんわ。

    先日NHKで偶然大谷吉継について放映されていて、それを眺めながらふと大谷吉継の類稀な人となりは病によって逆に陶冶された面が少なからず有るのではないか、と思ったりも致しました。
    縁とは不思議なものでございます、遅ればせながらお初にお目に掛かりました、日本の歴史は歳を経る程味わい深く楽しいですね。
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    カイオワさん
    2016/5/17 00:19

    hituji-jpさん、はじめまして、こんばんは。


    そうですか、そういう番組があったのですか。しまった、見ませんでした。


    以前はNHKの「その時歴史が動いた」を毎週見ておりました。


    もし吉継が病にかからなかったら、当然お茶会での一件もなかったわけですし、また違った歴史になってたかもしれませんね。

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