広島平和記念式典が閉幕し、数時間経過した午後(14時半頃)に到着した平和公園だが、麻生太郎副総理(当時首相)の見物を目的に広島平和記念式典に参列した2009年以来、6年ぶりに踏み入った平和公園の敷地
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『今思うと慙愧に堪えない思い(2009年の平和記念式典参列目的)』だが、今回は太平洋戦争が勃発した原因と、敗色濃厚だった日本に対しトルーマン大統領は、『原案(ポツダム宣言)にあった天皇制の存続を許容する文言の削除し、ポツダム宣言を受諾させない方向で計画的に全文を発表(鈴木勘太郎首相のポツダム宣言黙殺)』し、『その前(ポツダム宣言)に下した原爆投下命令は、ソ連(ロシア)への威嚇と原爆の威力の検証を目的した広島・長崎への原爆投下』
http://sp.mainichi.jp/feature/afterwar70/chronology/pacificwar.html" target="_blank" style="text-decoration: none; overflow: hidden; color: rgb(46, 92, 180); font-family: 'MS Pゴシック', 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, sans-serif; line-height: 18.2000007629395px;">http://sp.mainichi.jp/feature/afterwar70/chronology/pacificwar.html
そして何よりも、『原爆投下後に開設されたABCC(原爆傷害調査委員会)は、被爆された方々に対して治療を一切行わず、傷害サンプルの採取のみの調査活動だけだったのか?』など、少しでも全貌が理解できればと思い、平和公園に来場したのだが・・・
6年前(2009年)は、平和記念式典閉幕後に被爆を体験された方々が語りかけて下さり、ご自身の体験談を中心に、ご家族やご友人の被害についても直接伺い、体験談の終了後には『話を聞いてくれてありがとう』と言われ、返答に窮した記憶がある
今年は碑巡り最中に供覧されていた写真に見入り、昭和恐慌(1930年~1931年に日本を襲った恐慌)から順を追い、『本土上陸を遅らせるために沖縄を犠牲(捨石作戦)し、日本で唯一の地上戦と呼ばれた沖縄戦(兵力 日本10万人 アメリカ55万人)』、ABCC(原爆傷害調査委員会)の調査活動など、戦前戦後が齎した惨禍は居た堪れなく、言葉を失ってしまった
意想外だったのは、平和公園来場者に幼児連れの母親も多く、憶測にはなるが、安全保障関連(集団的自衛権)の問題もあり、関心が高かったのかもしれない(幼児連れの母親が来場する動機について興味があったが・・・)