(略)この作家としては例外的に、犯罪も血のにおいも閉め出された世界なのである。
しかも、『潮騒』を書き上げた時の三島は、まだ二十代とはいえ、
すでに手練れの小説作家であって、
素朴な初心の書き手がふと奇蹟のように生み出したナイーブな物語とは到底いえない。
とすれば、『潮騒』とは、一体いかなる作品であるのか。
一見、単純率直きわまりないこの恋物語にも、素朴な術策がこらされ、謎を秘めている。
一つは、作者自身にかかわる「謎」であり、
いま一つは作品そのものにかかわる「謎」である。
つまり、三島は何故この時期に、
これほど「ナイーブ」な恋物語を書こうとしたのか、という問いであり、
さらには、この小説の舞台や筋立てが、ふと作者の心に浮かんだアイディア、
また作者の観察から得た素材であったかという問いである。
事の順序から、まず第二の問いから始めさせて頂くなら、
『潮騒』は、ギリシャの小説『ダフニスとクロエ』
(厳密にいえば、ギリシャ語で書かれたローマ時代の小説で、
呉茂一氏によれば、おそらく紀元前一世紀もしくはさらに以前の作品であるらしい)
の現代版であり、その骨組みをなぞった現代版翻案の小説であった。
すでに二千年以上も前の作品であり、世界文学史上、あまりにも有名な小説であるから、
模倣とか剽窃とかいう段階の話ではない。
シェイクスピアやラシーヌが、またシェリーやキーツが、
ギリシャ・ローマの歴史や神話からその素材やアイディアを何のこだわりもなく借用したように、
わが三島もまた『ダフニスとクロエ』という古典をなぞりながら、
自分の小説世界を作り上げようとした。
今あげた例が古風すぎるといわれるなら、
『ユリシーズ』のジョイス、またジロドゥーやコクトーの戯曲を思い合わせてもいい。
古典における型にのっとりながら、自分流の世界を夢み、
描き上げるというのは、じつは極めて正統的な制作法なのである。
(略)
和歌でいえば、いわゆる本歌どりの筆法を三島は試みているのだ。
(略)
そして、古い原型にのっとり、その源泉からくみ上げようという三島の態度、方法は、
じつは最後の四部作『豊穣の海』にまで尾をひき、つながっている。
一見孤立してみえる『潮騒』は、やはり三島的想像力の正系の嫡子であった。
(昭和四十八年十二月、文芸評論家 佐伯彰一)
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★「潮騒」
三島由紀夫著 新潮文庫 430円+税 P.204~207より抜粋
『ダフニスとクロエ』という作品が、
世界文学史上、あまりにも有名だということを、オイラは知らない。
けれど、それを恥ずかしいと思うよりも、
そういう話を知ったという感動の方がオイラには大きい。
この佐伯彰一という文芸評論家が、
このようにオモロイ解説をしている。
それは二部構成になっており、
前半では三島文学の流れ、後半では特に「潮騒」について語っている。
抜粋箇所は、後半部分だ。
『ダフニスとクロエ』を知らなくても、『潮騒』は十分に楽しめる。
なので、解説を知って、また感動が倍増されてしまう。
そして、この佐伯彰一の解説は、読者をさらに三島文学へと引きずり込んでしまうのだ。
こういう解説をされたら、作者はさぞや嬉しいに違いない。
同時に読者の方は、三島由紀夫にまんまとしてやられたという、
それはそれは嬉しい侮辱を受けるのである。
マゾ気質な人には、たまらない作品だろう。