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阪和興業  内容古いですが 参考に

阪和興業は創業1947年、鉄鋼の取り扱いを中心とする総合商社。その他、非鉄、石油、食品、機械など取り扱い、商品は多岐に渡る。かつては財テク企業として名を馳せたがバブルの崩壊とともに多額の損失を出した。だが、2002年、8年間無配だった株式配当を復配に。2005年は鉄不足と鋼材価格の上昇に後押しされ過去最高益を達成。見事復活を遂げ、今期は売上高1兆円を目指す。
  北は1994年、社長に就任。元通産省の官僚。創業者を父に持ち、危機に瀕した会社を救う形で社長に就任。公務員からサラリーマンへの転身。しろうと社長と揶揄された男が見た地獄とは?会社の信用を回復させるために北は何を行ったのか? 官僚から社長へ。官から民への転身を遂げた北修爾の経営哲学と原点に迫る。

1942年、北は5人兄弟の長男として大阪に生まれる。父親は阪和興業創業者の北二郎。幼い頃から仕事一筋の父を見て育った。当時日本は貿易立国が叫ばれた時代。海外出張から帰ってくる父を見て、自分もいつか世界に出る仕事がしたいと思った。ただ、このころは将来父親の会社を継ぐとは思ってもいなかった。1962年、東京大学経済学部に入学。クラブはワンダーフォーゲル部に所属。当時ワンダーフォーゲルは興隆期で100以上の新人が入っていた。ここで北は青春を謳歌した。1966年、卒業後は通産省に入省。子供の頃に見た貿易立国日本を支えるという夢を叶える。その後、着実に官僚としてのキャリアを積んで行くのだった。
1993年、北が経済企画庁長官官房審議官の時、当時の上司を通じて阪和興業へ入社の打診が来る。北は驚く。当時、阪和興業は本業の鉄鋼事業よりむしろ財テク企業として知られていた。ピーク時は7000億近い資金を運用し、大手商社をも上回る収益を出していた。だが、バブル崩壊で経営内容は一気に悪化。多額の損失を出し倒産説が出るほどまでになっていた。この危機に再建で手を貸してほしいと言うのだ。
  役人として人生を送るつもりでいた北だが取締役として阪和興業に移った。その翌年(1994年)、阪和興業は1200億円の特別損失を計上。これは当時の上場企業では過去最大級の額。さらに前社長は引責辞任。状況は急展開して行く。そして、この未曾有の危機に、会社に移ってわずか半年の北が急遽社長に任命される。青天の霹靂だった。最初、「素人社長に立て直しは無理」、「阪和はつぶれる」と数々の中傷も浴びた。だが、北はそれに耐え、会社を立て直す事だけに専念した。
  北はまず、本業回帰と財テクからの完全撤退を宣言。運用している金融商品をすべて処分し約2000億円の特別損失を計上、財テクにけりをつけた。さらに、今まで硬直化していた人事を流動化し人材の適材適所をはかった。しかし、本業回帰は打ち出したものの当時は鉄鋼不況の真っ只中。更なる対策が必要だ。そして業績回復のために周囲から反対も出る中、北は一つの決断を下す。
  果たして北の決断とは?
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