サイコさんのブログ
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虚構の時代の果て
にほんブログ村 現在 54位 士業 (弁護士、会計士等) 現在 31位現代宗教意識論 大澤真幸まず、冒頭「すべての偉大な社会学者は、いずれも宗教社会学者でもあった」(「現代宗教意識論」序P7)。社会は宗教現象でしかない、としていろいろと例示を踏まえて論考していく。この「宗教」というのは、バリバリのキリスト教であったりイスラム教といった一神教をのみ意味するのではなく、アジア的なものに合致する意味で仏教やヒンズー教なのどの多神教的なものも含み、また、そうした世界宗教のみならず、信仰は薄くとも、というか仏教国だろう日本で年末にクリスマスパーティーが盛んに行われたりするような、形式のみが模倣されている現象も「宗教」として含んで考えるのである。もっと言えば、無神論者は、神を信じない、という宗教者なのである。だから、無宗教者という概念があるとして、宗教を持たない、という宗教を信じている者と言っていいだろう。しかしながら、宗教の中でも、キリスト教は異質なものであるとして、その中に予め世俗化の形式が用意されており、近代がそうした脱宗教へと進む過程が資本主義的なものと相まって、進行した。にも係わらず、現代においても、局地的な事情に限らず、宗教に根を持つ現象、たとえ形骸化された儀式や祭りであったとしても、他者の総体としての市民なり国民なりの共通行為として行われる宗教的行為は無くなっているわけではない。逆に、クリスマスの例でわかるように、宗教が完全に世俗化して形式化しているのが、日本的なクリスマスでもあり、それをも宗教行為とするのである。そして、それなりの洗練化も進んでいるわけである。さて、特異なキリスト教の例示だけではない。その成立過程も含めて歴史的遡及から古代、中世において超越的第三者による審級が成立しただけではない。そうした、宗教に根ざした社会でのみ、第三者による審級が機能するのではない。超越的第三者は、たまたま宗教が浸透する普遍的な社会においては神であり、神々であり、仏様であるわけだが、部分社会においても、例えばあるアーティストのファンクラブであれば、対象のアーティストが超越的第三者となりえるわけである。また、脱宗教化が進行しているはずの現代においてなお、メディアで占いをやらない日はないし、ヨガとかホットスポットなどが流行っていたりするのも含めて宗教現象であり、神(々、仏)に変わって、そうした中に第三者の審級がたち現れているのである。まぁ、共に何となく「われわれ」よりも上に存在する何かを仮構することで、それによって共同体の統率、統括を機能させるということなのだが、宗教だから分かりやすい、ということで何か安易な設定のようにも思ってしまうのだが。取り敢えず、上記を前提とした上で、オタクについての補論をして、いよいよ1980年代から2000年代に起きた猟奇殺人(オウム、宮崎勤事件、サカキバラ事件、アキバ事件)を分析している。もちろん、第三者の審級ありき、でである。大澤の理論構築はそういう意味でもかなり緻密なので、批判というのはかなり難しいように思うのだが、アキバ事件について、セカイ系からの視点はKの裁判記録まで読んでいて説得力はそれなりにあるのだが、ちょっと安直な感じがする。詳述するかわりに以前書いたルサンチマンを参照して欲しい。
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