「神は妄想である」-リチャード・ドーキンス

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「神は妄想である」-リチャード・ドーキンス

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 この本のことを、翔年が信頼している知識人は本の帯でこう言っている。
松岡正剛:「本書の一読は『知の果たし状』として推薦できる。」
デズモンド・モリス:「勇猛かつ重要な一冊。これで頑迷なる宗教が歴史のゴミ箱行きになってくれれば、というのは期待のしすぎだろうか。」


 この素晴らしい本のことはBlog”Ten Thousand Leaves”のYNさんに教えてもらった。
 かねてから、宗教、特に一神教、中でも政教分離がなされていない社会での一神教ののさばり方に眉をひそめていた者としては、ドーキンスの徹底した隙のない論理と舌鋒の鋭さに快哉を叫びたい。



 ドーキンスは科学者らしい精緻な実証主義で600ページの本のほとんどを「神」の検証と宗教の荒唐無稽さを暴くことに費やしている。人類史上、ガリレオ・ガリレイからダーウイン、アインシュタインに至るまで、パラダイムシフトを発想した科学者はみんな苦難の道を歩んできた。
 そして21世紀に於いて、まだ宗教の呪縛から逃れられなくて、地球上は彼らの争いによって(国の争いではない)、殺戮が繰り返されている。


 まず、キリスト教文化圏に育った著者は聖典をどのようにように見ているか。
「『旧約聖書』の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでももっとも不愉快な登場人物である。嫉妬深くて、そのことを自慢にしている。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化を行った人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫をひき起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをするいじめっ子だ。」
→ 全く同感。この聖典から、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が古代社会に根づきはじめ、中世で一神教(他教は邪宗)として異常発達、その結果、社会の隅々に蔓延することとなった。

 このような大きな問題は翔年がアレコレ言うよりも、信頼できる幾多の知的巨人の言を聞いて見る方がよっぽど役に立つ。このエントリーは引用の編集でいきます。

アメリカの建国の父、トマス・ジェファーソン(甥にあてた手紙の一節):
「小さくちぢこまった弱い精神が隠れみのにまとう、卑劣な偏見という殻につきもののあらゆる怖れを振り払いなさい。理性にしっかり性根をすえて、あらゆる事実、あらゆる意見をその席に呼び出しなさい。神の存在についてさえ大胆に問うべきだ。なぜなら、もし神が存在するとすれば、恐れで何も見えない状態でいるより、理性に敬意を払うことを高く評価するはずからである。」
→ ジェファーソンは無神論者であることは疑いを持ちません。

ベンジャミン・フランクリン:
「灯台のほうが教会よりも役に立つ」
→ 無神論者らしい。

ジョン・アダムス:
「もし、教会さえなければ、この世界は、およそ考えられるあらゆる世界の中で最善のものであっただろう。」
→ それはそうだけど、正直に白状すれば、翔年がまだ青年だったころ、信仰をもった人格者(例えば新渡戸稲造や新島襄のような人)の存在を知って、困惑したことは事実です。

ガンジー:
「私はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒であり、ユダヤ教徒であり、キリスト教徒であり、仏教徒である!」
→ これが無抵抗主義というものか。

ネルー:
「インドおよびその他の土地で、宗教とよばれるもの、あるいはともかくも組織化された宗教の偉容はあまりに怖ろしく、私はしばしばそれを非難し、すっかり掃き清めてしまいたいと願った。ほとんどつねに、それは盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取、および既得権の維持に味方するように思われた。」
→ この考えはジェファーソンと少も変わらない。これほどの先覚者がいても、インドは今なお暗い。

バートランド・ラッセル:
「知的な意味で著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを恐れているからだ。」

ショーン・オケーシー(アイルランドの劇作家):
「政治は何千人も人を殺してきたが、宗教はその何十倍もの人間を殺してきた。」

スティーブン・ワインバーグ(ノーベル物理学賞受賞者):
「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である。」「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない。」
→ コメントのしかし以降は、誰も反対することはできません。

人種差別の種の証拠をしめそう。
ヒトラー(「わが闘争」より):
「私は現在、自分が全能の創造主の意思の通りに振舞っていると信じているのである。すなわち、ユダヤ人から自分を防衛することによって、私は主の御業のために戦っているのだ。」


ドーキンス(著者):
「宗教戦争は実際に宗教の名のもとで戦われ、それは歴史上おそろしいほど頻繁に見られる。一方、無神論の名のもとに戦われた如何なる戦争も、私は思い浮ベることができない。(中略)しかし、戦争をおこなう動機としてより妥当な候補と言えるのは、自分達の宗教が唯一本物の宗教であるという不動の信念なのである。そしてこの信念を補強するものこそ、すべての異教徒やライヴァル宗教に対して公然と死罪を宣告し、神の戦士はまっすぐに殉教者の天国にいけると露骨に約束する聖典にほかならない。」


 このように著者は縦横に古今の名言や事実を検証しながら、宗教を攻撃してやまない。キリスト教文化で育った知識人にエールを贈るという意図をもって。
 実際、狂信者が彼に危害を加えないかと心配に成るほど、徹底的に宗教を糾弾している。翔年は科学者であり、知性の人であるドーキンス先生のこの立場を強く支持します。

 最後にバートランドラッセルのエッセイ、「私が信じるもの」が翔年の気持ちを代弁してくれていると思うので、引用して終わりにします。
「私は自分が死んだら腐り、私の自我の何一つとして残らないだろうと信じている。私は若くはないし、人生を愛している。しかし私は、自分がこの世から消えてなくなることを考えて恐怖に震えるなどという人を嘲らずにはいられない。幸福にはかならず終わりがあるといっても、それが本物の幸福であることに変わりはないし、永遠に続かないからといって、思考や愛がその価値を失うわけでもけっしてないのである。」
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