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イデオロギー的影響の前哨

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  資格ブログ村  法律系資格 現在 28位   士業(弁護士、会計士等)  現在 1位国民的歴史学運動とは、1948年『歴史評論』に、「村の歴史・工場の歴史」と題する論考を石母田正が発表したところを端緒として、この論考が収められた歴史と民族の発見をバイブル的に実践した運動である。アカデミズムという権威のもとでの研究は、例えば徳川家康を研究するにしても残されている資料は結局は為政者の権力のもとにあるものであるから、上(ブルジョワ階級)からの歴史でしかないので、口伝や伝承として伝わる下(労農層)からの本当の歴史を作らなければならないという趣旨でもって、1950年当時の歴史学を専攻する学生たちを中心に、この運動に引き入れていったのである。そして実際に工場(労働組合)に行って、社史ではない会社労組(労働者)の歴史を編纂したり、あるいはどこそかの農村に行って、民話や民謡や伝説を聴取して村の歴史を編纂するというのが具体的な運動の内容であった。そうした運動による成果物はそれを担当した細胞(結局は学生共産党員によるものだった)の物とはせず、実地の労組なり村なりに還元するものとされていた。農村におけるそれは、まさに柳田國男の民俗学にも匹敵するものではあったのだが、何せ学生のする研究であったので稚拙な域を出なかった。また、「民衆のなかへ」という理念そのものが、現実の民衆に対する無知から発していたことを意味していた。歴史学者の網野善彦もこの国民的歴史学運動に関与していたのだが、中途から「人民のなかへ」という理念自体、非常に観念的でインテリ的だという気持ちを持ちはじめ、それを運動の内部で発言しているうちに、いろいろな摩擦が起り、1953年の夏に運動から脱落した(網野善彦対談集「日本」をめぐってP159)。村の実際と、マルクス主義から導かれる科学的歴史観の乖離。「実際」というのを「自然」、自然な振る舞い、そのままの、という意味で考えたときにその唯物史観的な物差しはかなりに歪曲を加えるものであった。また研究そのものから共産党の活動の一部に摩り替わるような事態になっていくにつれて、六全協で共産党が方針転換するあたりで自然消滅的に終息したということだ。それに続き、今度は「第一の戦後」当時の教育現場が書かれていて、日教組の活動を中心に書きながら、日本語としての共通語、標準語の確立を民族語愛護論と言語道具説との絡みで書いている。それと、その当時の教育者が、公職追放される者も少なく、戦前、戦中から引き続き現場を担当したので、端的な例として、「皇国日本」が「主権在民の国」に変わっても、行動様式は戦前と変わらない、教えられるものが「アメリカの愛国歌」に変わり、「兵隊さんありがとう」と書く相手がアメリカ兵に変わっただけで、行動様式は変わらなかった。「聖戦完遂」が「民主主義」に変わっても、愛国心や「民族」が強調されるという事態もまた、変わっていないともいえた、(P380参照)としている。この奇妙な連続性を持続しながらも、「国民教育」の具体的な方向性を見出すことができず、「アメリカ式」の経験学習がその間続き、そうこうするうちにそうした「無国籍人教育」はある意味定着してしまうことになる。その当時の保守にしても革新にしても、「まず経済復興」を第一手順としていたこともあり、というのは教育も大事だがその児童の経済的貧しさを兎に角なんとかしなければ、というのが先決問題でもあったからなのだ。そしてこの「第一の戦後」における教育現場の諸問題がのちのち60年安保で戦後民主主義として批判の矢面にたたされることとなる、とのことである。そして10章で、竹内好について、一元的な「ナショナリスト」としての捉え方ではなくて、戦前、戦後を通して肉迫することとなる。ここでは、いわゆる竹内をナショナリストとする誤解がどこからくるのかを解説しているのだが、簡単に言うと、難解で反語的な表現の上に説明不足、ということに尽きるようだ。しかも本人も烏鷺覚えで用語を使っていたりするので、話が途中で見えなくなってきたりするようで、「国民文学論争」では右から攻撃されたかと思うと左からは失笑されるみたいな感じだったようだ。ある対概念があるとして、その二項対立の一方を置き換えただけでは進歩は望めず、超越論的に一項を深化させることでなければ真に独立とは言えない。大東亜戦争に対する戦争責任という自己批判、竹内が真の独立心としての方法とは、そうした自己否定による反省の深化によって他と繋がるとするものだった。しかし、この反省システムはほんとに危ない。嗤う日本の「ナショナリズム」で言うところの「総括」がまさに竹内を誤読することでも出てきてしまうように思う。実際、60年安保のとき、竹内は学生から再評価されていた節があるようで、その末期的な「日本赤軍」の事件を思うと、自己否定はほどほどにしての乗り越えシステムができれば、ということか。この8章から10章は、「第一の戦後」当時の共産主義的なイデオロギーを背景とした教育現場を実際に体感した教育者、小学生も含めた学生たちが、「第二の戦後」においてどのような変節を伴って時代的な潮流を起こしていくのかを検証するための前置きではあるのだが、この章の流れはすばらしく解説的である。「民族」や「人民」、少したって「国民」というときに、その当時は共産党的な響きを持って使われていて、ナショナリズムはどちらかと言えば共産主義的なイデオロギーの範疇でもあった。竹内好が、ある意味そこからはみ出て「ナショナリスト」と誤解されてはいたが、その誤解が次代に与えた影響は少なくないようである。グゥーーー
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