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嗤う、憲法記念日

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  資格ブログ村  法律系資格 現在 21位  士業(弁護士、会計士等)  現在 11位今日は憲法記念日である。2年ほど前に読んだのだが、少し騙ってみる。憲法九条を世界遺産にタイトルだけからすると、なんともふざけた感じの内容に思えてしまうのだが、ここで爆笑問題の太田光が語っている感性は単なる芸人の域を超えたものとなっている。がしかし、多分に現代を生きる日本人の誰しもが少なからず抱いているであろう不平の代弁者としてのそれでもある。平和ボケ憲法を意識するか否かを問わず、この憲法が常にすでに、日本人たるを基幹せしめ、この機能によって経済的発展を遂げてきたことに異論はない。戦前と戦後を繋ぐキーパーソンとして宮沢賢治を例にして、非常にまとまりある対談となっている。太平洋戦争になだれ込んでいく状況と現代のもの申すことがはばかられる状況の類似点をあげつつ、体現的な立場での太田のもの言いが、それこそ昔の落語家のような話芸の現代版となっている。太田自身はストレートなもの言いは自分に芸がないことをしきりに言うのだが、中沢新一がホローするところの、江戸時代の噺家が体制を揶揄しているのにもかかわらず、その面白さが故に体制に庇護されてきた歴史をこれに重ねている。 どうしても批判的ではなくて否定的なことを書くが、それは太田が名前ほどの光る芸人でもなければ、芸能人でなければそこらのニートと変わらないほどの没人間なのに、それこそ今、与えられた立場で何かを発することに、病的に反応しているだけのように感じることだ。確かに知識はあるが、言ってしまえば無駄な知識かもしれない。ただ、芸人にとって仮の必要性のある知識、感性であって、芸人の生みの苦悩とでもいうか、難しいところだ。生みの苦悩であるはずの「日本国憲法」を、日米合作による突然変異として語るところは、浮薄な愛着を偲ばせているようにも思え、ようは何か憲法そのものと太田自身が一体となって重なってしまう太田の思い込み、思い入れも多少あるに違いない。それと芸とは、また違うところにあるような気もするのだが。憲法愛国主義のところでも騙ったように、現行の日本国憲法は日米の合作などでは全くない。勝者によって与えられた「平和」憲法である。たまたまこの60年余りの歳月の中で、日本人的な本性(スノビズム)によって機能したに過ぎない。ただ、ここにきて国際貢献という意味で劣化しているのであるが、今日的状況を読めなかった当時のアメリカ首脳部の底の浅さなのである。しかし、それを未だもって嗤うしかないのではないか。純粋テレビからの発言者たる太田総理は、そのネタで如何に笑わせるかに純化せよ、と言いたい。寄るところは、ネタが世論(電話投票)に迎合され得ない、という否定神学的な要素からの自虐性に基づいている危うさで、「市民主義者」を笑いに取り込む戦略を取っている方法論である。と、すると双方向的な戦略を取り入れている「巻き込み型」の太田光の私が総理大臣になったら...秘書田中。は、純粋じゃなくて不純なのではないか。ある意味、末期的な政治システムをパロディにして、討論というディベートでもって、それも単純に賛成か反対かというよくあるディベートの形式(ここにもフォルマリズムが!)によって、最終的に電話投票も含めて可決か否決かを問うのであるから、テレビに名を借りた「政治ごっこ」を中継するというシニカルに不純なテレビだとも言えそうである。なるほど、嗤う日本の「ナショナリズム」 でいうところのロマン主義的シニシズムに一見思うのだが、実は今までの「巻き込み型」とは違い、政治の外で政治を行うことを体現させてくれるバーチャル現実主義的シニシズムなのだ。そこに象徴としての太田総理があり、当然仮構であるがために非現実的なマニュフェストがよりリアリティを持って、「市民主義者」を半ばシニカルにコミットさせることに成功しているように見える。さて、本に戻るが、太田はまだ護憲派なのだろうか。これを上梓してから幾年か経っているのだが、タレントとしての戦略でしかないかもしれないにしても、イロニーの権化として研ぎ澄まされてきた感じはなんとなくするのだが。ちょっと褒め過ぎか。グゥーーーーー
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