今日は、祝日である。天皇誕生日だ。
どうも、どうしても、どうにもならない事がある。そんな時、口癖は「なるようになるさ」である。まあ、はっきりしていることは、残りわずか。思えば、それなりに、いろいろ有った。大体、つらい事の思い出が多い。そういう苦境の中で、いつの間にか、すぎて行ってしまった。
すこし距離をおいて、自分を眺めたとしたら、何かやっている。それだけである。距離を置いた自分には、それが、別の自分を見るのだが、そこには苦境も、喜びも、何にもない。距離をおいた自分には、そこには、感情というものが、ないのである。
まあ、そんなもんだから、これからは、今までを、振り返り、ブログに書くことくらいである。
今日は、音の屈折を、書いてみよう。これは昨日、夢の中で「黒(猫)」を思い出し、そして秋の深まった頃、床の下で、「こおろぎ」が鳴いている。さみしい鳴き声である。その音も日がたつにつれて、か細くなる。そして、聞こえなくなる。
(黒猫は、ブログに書きました)
この頃は、秋から冬である。夜、寝ていると、上越線の、群馬総社駅の、蒸気機関車の音が、聞こえる。普段は聞こえないのだが、空気の密度の差で、機関車の音が、空気の上の方に行き、空気の密度の濃いい、ところと、薄いところで、音が反射して、我が家まで届くのである。普段は、聞こえないのだが。それが、何とも、寂しいのである。
汽笛の音である。その音が、何とも侘しい。空に向かって、ぼーおおーと、泣き叫ぶような声である。そして、がちゃ、がちゃと、音がする。10数回、聞こえる。これは機関車が動く時に、貨車の連結部分の空間が、ぶつかり合う音である。そして、また、ぼーと音がして、ガタン、ガタン、という音になる。レールの連結部分の音である。駅から我が家には、3キロメートルも、離れているのに、聞こえるのである。
この頃は、小学生の時で、自動車も無く、空気も綺麗で、村中が、静かだった。ラジオは、真空管ラジオで、時々、真空管が、切れた。停電も予告なく、度々あった。石油ランプで、明かりを灯し、夜、うどんを食べる毎日だった。(今の食事は、贅沢すぎる)
そんな、侘しい、思い出がある。気が付くと、朝になっている。
これからもそうだが、「なるようにしかならない」ケセラセラである。それでも、残りの時間である。
一生懸命やればよい。ボロボロになっても、生き抜く。そんだけである。ここから先は、神が見ている。