今、永平寺の1年間を、ネットで見た。道元禅師の教えを1246年から、今まで、同じく修行してゆく。食事、作務、座禅、眠ること、一日の全てが修行なりという。
まあ、普通の人は、これが出来ないだろう。何しろ厳しい。私にも無理だ。顔を洗うのにも、桶一杯の水で洗う。まず、これが出来ない。花粉症で、これでは、とても足りない。ここから挫折である。
座禅にしても、これも無理だ。雑念が出るのは、自然だとしても、これならば、他のことがしたいという欲望が出る。例えば、今では数学を学んでみたいとか。
何とか、出来るのは、作務だろう。庭の草むしりとか、手入れとか。他には、雑巾がけがある。この時だけは、声を出してよいことになっている。他では、無言である。
道元は、典座(てんぞ、食事を作ること)を、最も重要な修行とした。ここでも、手抜きは許されない。丁寧に作ること。そして、食事の内容である。朝は粥である。ここでも、自分はこれを食べる価値があるのかと、問いながら、食べる。毎日、決まっている。粥、塩ゴマ、沢庵である。この頃は、栄養という考えは、無かった。しかし、これでよく、健康でいられると思う。
秋には、托鉢(たくはつ)。これは、雨が降ろうが、雪が降ろうが、出かける。今日は、雨だから、止めようなんてことはない。びしょびしょに、濡れるかもしれない。しかし、それでも、家、家を回る。
冬の寒さでも、暖房はない。布団にくるまって、寝るだけ。冬は室内でもマイナス10度になる。朝は3時半に、振鈴が鳴る。そして、雲水はまず、顔を洗う。この繰り返しである。世間を離れての生活であり、生活することが修行である。
話は別だが、先ほど、花火の音がしていた。伊勢崎だろうか。それとも、他か。20時40分。花火の音も、鳴りやんだ。静かなり。