やっぱり完全な創作とわかる作品よりも、私小説風の作品が好きだ。
三島由紀夫なら「仮面の告白」、川上弘美だとこれはエッセイに近いけど「Blue moon」、
村上春樹なら「ノルウェイの森」、村上龍なら「限りなく透明に近いブルー」。
必ずしも私小説とは限らなくったっていい。
ひょっとしてこれ、私小説なのかも知れないと想わせてくれれば、それでいいのだ。
完全な創作でも、浅田次郎の「月島慕情」ように激しく魂を揺さぶられれば読み手は最高だけれども、
そういう作品をそんなにしょっちゅう作家だって書けるわけがない。
そこで、それとは似て非なる読後感にはなるけれど、
私小説風の作品の場合、それを書いた作家の内面を見るような思いがするので、
読み手の魂がいろいろと反応を示すことになる。
作品から受ける直接的な読後感とは違う、二次的な想像がやってくる。
「ノルウェイの森」だと特に、その前の「蛍」という短編があって、
そこから進展してできた長編となっている。
それだけでも、なんで村上春樹はそこまでこだわったのだろうかと、
二次的な想像が膨らんでくる。
田舎から上京してきた主人公・ワタナベトオルが、過去を振り返りながら物語が進行していく。
仲のよかった親友キズキが、前日ビリヤードをしたというのに、突然自殺してしまう。
キズキの彼女であった直子との交際が、主人公のワタナベと始まって、
直子の悲劇的な最期と、結果的にもうひとりの女性・緑との結びつきが生まれる。
村上春樹自身が書いていたエッセイで、
彼は学生結婚したとある。
身近に二人いたうちの一人と結婚したとある。
「ノルウェイの森」と話のつじつまが合っている。
緑=奥方の陽子さんなんじゃないのかって。
そういうわけで、これはド・私小説なんじゃないのかという思いがするのだ。
さらに、こんな事情があったので、
「1Q84」ではオイラの拳銃での自殺未遂を半分は叱責する意味で、
タマルを通じたお説教的な内容になっていたのではないかと思うのだ。
因みにオイラの自殺未遂の原因なのだけど。
マエストロ掲示板にも書いたけど、
当時交際していた女性問題が発端だった。
驚いたことに、その女性の名前はヨウコだ。
横須賀に住んでいて、横浜で仕事していたので、
「港のヨウコ 横浜 横須賀」を地で行った女だった。
京都の伏見は村上春樹の生まれた土地、伏見稲荷がそこには鎮座していて、
1984年に住んでいたという藤沢市鵠沼、そこにも伏見稲荷があって。
女の名前まで共通しているとは、なんという不思議な縁。
その位に強烈な縁を感じたからこそ、オイラは「1Q84」の材料になったものと思われる。
オイラが腰越でビリヤードをよくしていたという話だって、
なんとなくキズキっぽい。
「君は、10年は治らないかも知れない」と主治医に宣告されたオイラの心の傷も、
どうしたってキズキっぽい。
その上、仕事の結果出して頑張ったっていうのに、
はめられて懲戒免職になるとは。
(すげーな、それでもオイラちゃんと生きてる!)
私小説って、だいたいにおいて暗い話が多い。
作家の心の内面をたんたんと語る。
なかなか西村賢太みたいに、明るくなれない。
私小説というのは、そのほとんどが、
作家の心の中に流れている「縦書きの雨」なのだと思うのだ。
★「縦書きの雨」
EGO-WRAPPIN'
https://www.youtube.com/watch?v=x7c4dm0RCwg
彼女の作詞センスは最高だし、声はイイし。
相棒の作曲も最高だし、複雑でジャズっぽい曲は飽きない。
それにこのPVを観ていると、中納良恵の母性みたいなものを感じるんだけど・・・。
ちょっとヤバイ。。