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「赤い靴」の少女像 母眠る小樽で「再会」

 

   横浜と函館、小樽、三つの港町に共通する像がある。野口雨情が作詞した童謡「赤い靴」の少女像。モデルとなった少女がいた。歌では異人さんと横浜から旅立ったとされたが、実際は孤独の中、東京でわずか9歳の生涯を閉じていた。少女と母親らの像がある、ゆかりの小樽と留寿都村を歩いた。


 少女は岩崎きみ(1902~11年)。きみと母かよは、03年12月、静岡から函館へ。かよは、函館から現在の留寿都村に入植する前、内縁の夫との間に生まれた幼いきみを米国人宣教師夫妻に預ける。その後、かよは鈴木志郎という別の男性と結婚。2人は小樽へ移り、多くの子どもに恵まれ、札幌や樺太を経て再び小樽で暮らし、小樽に眠る。

 かよから娘きみの話を聞いた雨情は、それを基に童謡「赤い靴」を作詞した。だが、実際にはきみは結核を患い、夫妻と米国に渡ることなく、東京都内で短い人生を終えた。かよは娘の最期を知らなかった。

 小樽の旧日本郵船小樽支店前の運河公園内に、少女と両親3人の像が立つ。台座のボタンを押すと、「赤い靴」の懐かしいメロディーが流れてきた。

 おたる案内人の真壁睡渓さん(74)は、ガイドする客にこの秘話を語るという。「多くの人は、少女が横浜から米国へ渡ったと思っていて、本当の話をするととても驚きます」

 親子と小樽との関わりを丹念に調査し、冊子にまとめたのが倉重紀久男さん(72)だ。倉重さんは、親子像の保存会「おたる赤い靴の会」で、会報の編集長も務め、「小樽は赤い靴の物語の終着駅です」と語る。

 函館、留寿都の少女像も訪ねた。二つの像はともにひとりぼっちで、遠くを見つめていた。その姿は、薄幸だったきみの人生と二重写しになった。小樽の親子像は、母が少女の手を握り、語りかけているようだ。「親子は天国で再会できたはず。そんな思いを像にしました」と倉重さん。

 「赤い靴」の像は、横浜、きみが死んだ東京の麻布十番、埋葬された青山墓地などにある。留寿都には、かよがモデルの「開拓の母」像が立つ。

 倉重さんは、「赤い靴」をテーマに小樽サミットを開きたいと願う。人と人との関係が希薄な時代に、赤い靴の物語は人の絆と平和という普遍のテーマを伝えていると思うからだ。(イラスト・横山文代 文・相原秀起)

<メモ>
 小樽「赤い靴 親子の像」 小樽市色内3の運河公園内。留寿都・少女の「母思像」は、留寿都村留寿都68「赤い靴公園」に、「開拓の母」像は同村の道の駅「230ルスツ」裏の「ルスツふるさと公園」にある。函館の「赤い靴少女像」は函館港の西波止場。






 
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